記憶は頗るぼんやりしてゐる。私の記憶は、何か重要視するものに集中してゐるのだから、其外の物に對しては頗る信頼し難いのである。それだから自身の既往なんぞに對しては頗る灰色になつてゐるのである。或は丸で消滅してはゐないかも知れないが、少くも土藏のごく奧の方にしまひ込んであると見えて、一寸出してお目に掛けにくい。
 私は石見國鹿足郡津和野町に生れたものだ。四萬三千石の龜井樣の御城下で、山の谷あひのやうな處だ。冬になると野猪が城下に出て荒れまはる。さうすると父は竹槍を持つて出掛ける。私はお母あ樣と雨戸をしめて内にはいつて、雨戸の節穴から、野猪の雪を蹴立てゝ通るのを見てゐたのだ。
 その津和野から東京へ出て來たのが、お尋の十四五歳の時であつたと思ふ。どうも何年何月であつたか、空には覺えてゐない。
 父は龜井樣の侍醫のやうなものになつて出るので、私は附いて出たのだ。今の伯爵のお祖父樣なのだ。向島須崎村にお邸があつた。
 私は本郷壹岐殿坂の獨逸語を教へてゐる學校にはいつた。そこへ通ふには向島からでは遠いから、神田小川町の西周といふ先生の家に置いて貰つてそこから通つた。
 土曜日には向島へ往く。日曜日
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