を一日遊んで西の邸へ歸る。その頃は東橋の下の渡を渡るのであつた。父から一週間の小遣に一朱貰ふのが例になつてゐる。一朱では諸君に分かるまい。六錢二厘五毛である。それを使ふのに、渡錢丈け殘して置かねばならないのであつた。渡錢は文久一つ即ち一厘五毛であつた。ところが或時日曜日の朝向島へ往くのに、その文久が無かつた。そこで大いに困つたが、渡場の傍に材木問屋があつたのを見て、その帳場の爺さんに、渡錢にするのだが、文久を一つ明日まで貸してくれまいかと云つた。爺さんが、えゝ、朝つぱらからいま/\しいと云ひながら、兎に角文久は出してくれた。私は言草が癪に障らぬではなかつたが、必要に迫られて借りた。翌日それを持つて往つて返すと、爺さんはいらないと云つた。私は腹が立つたから、文久を爺さんの顏に投げ附けて、一しよう懸命駈けて逃げた。
 一寸思ひ出したのはこんな事だ。



底本:「鴎外全集 第二十六卷」岩波書店
   1973(昭和48)年12月22日発行
底本の親本:「妄人妄語」
   1915(大正4)年2月22日発行
初出:「少年世界 第十五卷第十二號」
   1909(明治42)年9月1日発行
※初
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