アルチバシェッフ・ミハイル・ペトローヴィチ Artsybashev Mikhail Petrovich
森林太郎訳

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)本町《ほんまち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一寸|嚇《おど》して

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いて

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぴか/\
−−

 医学士ウラヂミル・イワノヰツチユ・ソロドフニコフは毎晩六時に、病用さへなければ、本町《ほんまち》へ散歩に行くことにしてゐた。大抵本町で誰か知る人に逢つて、一しよに往つたり来たりして、それから倶楽部へ行つて、新聞を読んだり、玉を突いたりするのである。
 然るに或日天気が悪かつた。早朝から濃い灰色の雲が空を蔽つてゐて、空気が湿つぽく、風が吹いてゐる。本町に出て見たが、巡査がぢつとして立つてゐる外に、人が一人もゐない。
 ソロドフニコフは本町の詰まで行つて、踵《くびす》を旋《めぐ》らして、これからすぐに倶楽部へ行かうと思つた。その時誰やら向うから来た。それを見ると、知つた人で、歩兵見習士官ゴロロボフといふ人であつた。此人の癖で、いつものわざとらしい早足で、肩に綿の入れてある服の肩を怒らせて、矢張胸に綿の入れてある服の胸を張つて、元気好く漆沓《うるしぐつ》の足を踏み締めて、ぬかるみ道を歩いてゐる。
 見習士官が丁度自分の前へ来たとき、ソロドフニコフが云つた。「いや。相変らずお元気ですな。」
 ゴロロボフは丁寧に会釈をして、右の手の指を小さい帽の庇に当てた。
 ソロドフニコフは只何か言はうといふ丈の心持で云つた。「どこへ行くのですか。」
 見習士官は矢張丁寧に、「内へ帰ります」と答へた。
 ソロドフニコフは「さうですか」と云つた。
 見習士官は前に立ち留まつて待つてゐる。ソロドフニコフは何と云つて好いか分からなくなつた。一体此見習士官をば余り好く知つてゐるのではない。これ迄「どうですか」とか、「さやうなら」とかしか云ひ交はしたことはない。それだから、ソロドフニコフの為めには、先方の賢不肖《けんふせう》なんぞは分かる筈がないのに、只なんとなく馬鹿で、時代後れな奴だらうと思つてゐる。それだから、これが外の時で、誰か知つた人が本町を通つてゐたら、此見習士官に彼此云つてゐるのではないのである。
 ソロドフニコフは「さうですか、ゆつくり御休息なさい」と親切らしい、しかも目下に言ふやうな調子で云つた。言つて見れば、ずつと低いものではあるが、自分の立派な地位から、相当の軽い扱をせずに、親切にして遣るといふやうな風である。そして握手した。
 ソロドフニコフは倶楽部に行つて、玉を三度突いて、麦酒《ビイル》を三本勝つて取つて、半分以上飲んだ。それから閲覧室に這入つて、保守党の新聞と自由党の新聞とを、同じやうに気を附けて見た。知合の女客に物を言つて、居合せた三人の官吏と一寸話をした。その官吏をソロドフニコフは馬鹿な、可笑《をか》しい、時代後れな男達だと思つてゐるのである。なぜさう思ふかといふに、只官吏だからと云ふに過ぎない。それから物売場へ行つて物を食つて、コニヤツクを四杯飲んだ。総てこんな事は皆退屈に思はれた。それで十時に倶楽部を出て帰り掛けた。
 曲り角から三軒目の家を見ると、入口がパン屋の店になつてゐる奥の方の窓から、燈火《ともしび》の光が差して、その光が筋のやうになつてゐる処丈、雨垂がぴか/\光つてゐる。その時学士はふいと先きに出逢つた見習士官が此家に住まつてゐるといふことを思ひ出した。
 ソロドフニコフは窓の前に立ち留まつて、中を見込むと、果して見習士官が見えた。丁度窓に向き合つた処にゴロロボフは顔を下に向けて、ぢつとして据わつてゐる。退屈まぎれに、一寸|嚇《おど》して遣らうと思つて、杖の尖で窓をこつ/\敲いた。
 見習士官はすぐに頭を挙げた。明るいランプの光が顔へまともに差した。ソロドフニコフはこの時始て此男の顔を精《くは》しく見た。此男はまだひどく若い。殆ど童子だと云つても好い位である。鼻の下にも頬にも鬚が少しもない。面皰《にきび》だらけの太つた顔に、小さい水色の目が附いてゐる。睫も眉も黄色である。頭の髪は短く刈つてある。色の蒼い顔がちつともえらさうにない。
 ゴロロボフは窓の外に立つてゐる医学士を見て、すぐに誰だといふことが分かつたといふ様子で、立ち上がつた。嚇かしたので、学士は満足して、一寸|腮《あご》で会釈をして笑つて帰らうと思つた。ところが、ゴロロボフの方で先きへ会釈をして、愛想好く笑つて、その儘部屋の奥の方へ行つてしまつた。戸口の方へ行つたのらしい。
「はてな。己を呼び入れようとするのかな」と思ひながら、ソロドフニコフは立ち留まつた。その儘行つてしまふが好いか、それとも待つてゐるが好いかと、判断に困つた。
 パン屋の店の処の入口の戸が開いた。そして真黒い長方形の戸の枠からゴロロボフの声がした。
「先生。あなたですか。」
 ソロドフニコフはまだどうしようとも決心が附かずにゐた。そこでためらひながら戸口に歩み寄つた。闇の中に立つてゐるゴロロボフは学士と握手をして、そして自分は腋へ寄つて、学士を通さうとした。
「いやはや、飛んだ事になつた。とう/\なんの用事もないに、人の内へ案内せられることになつた」と、学士は腹の中で思つて、そこらに置いてある空き箱やなんぞにぶつ附かりながら、這入つて行く。
 廊下は焼き立てのパンと、捏《こ》ねたパン粉との匂がしてゐて、空気は暖で、むつとしてゐる。
 見習士官は先きに立つて行つて、燈火の明るくしてある部屋の戸を開けた。ソロドフニコフは随分妙な目に逢ふものだと思つて、微笑《ほゝゑ》みながら閾を跨いだ。
 見習士官は不恰好な古い道具を少しばかり据ゑ附けた小さい部屋に住まつてゐる。
 ソロドフニコフは外套を脱いで、新聞紙を張つた壁に順序好く打つてある釘の一つに掛けて、ゲエトルをはづして、帽子を脱いで、杖を部屋の隅に立てて置いた。
「どうぞお掛けなさい」と云ひながら、ゴロロボフは学士に椅子を勧めた。ソロドフニコフはそれに腰を掛けて周囲《まはり》を見廻した。部屋に附けてあるのはひどく悪いランプである。それで室内が割合に暗くて息が籠つたやうになつてゐる。学士の目に這入つたのは、卓が一つ、丁寧に片附けてある寝台《ねだい》が一つ、壁の前に不規則に置いてある椅子が六つの外に、入口と向き合つてゐる隅に、大小種々の聖者の画像の、銅の枠に嵌めたのが、古びて薄黒くなつてゐて、その前に緑色の火屋《ほや》の小さいランプに明りが附けて供へてあつて、それから矢張その前に色々に染めたイイスタア祭の卵が供へてあるのであつた。
「大したお難有連《ありがたれん》だと見える」と、ソロドフニコフは腹の中で嘲つた。どうもこんな坊主臭い事をして、常燈明《じやうとうみやう》を上げたり、涙脆さうにイイスタアの卵を飾つたりするといふのは、全体見習士官といふものの官職や業務と、丸で不吊合だと感ぜられたのである。
 卓の上には清潔な巾《きれ》が掛けて、その上にサモワルといふ茶道具が火に掛けずに置いてある。その外、砂糖を挾む小さい鉗子《かんし》が一つ、茶を飲む時に使ふ匙が二三本、果物の砂糖漬を入れた硝子《ガラス》壺が一つ置いてある。寝台の上には明るい色の巾が掛けてある。枕は白い巾に縫ひ入れのあるのである。何もかもひどく清潔で、きちんとしてある。その為めに却つて室内が寒さうに、不景気に見えてゐる。
「お茶を上げませうか」と、見習士官が云つた。
 ソロドフニコフは茶が飲みたくもなんともないから、も少しで断るところであつた。併し茶でも出させなくては、為草《しぐさ》も言草もあるまいと思ひ返して、「どうぞ」と云つた。
 ゴロロボフは茶碗と茶托とを丁寧に洗つて拭いて、茶を注いだ。
「甚だ薄い茶で、お気の毒ですが」と云つて、学士に茶を出して、砂糖漬の果物の壺を押し遣つた。
「なに、構ふもんですか」と、ソロドフニコフは口で返事をしながら、腹の中では、「そんな事なら、なんだつて己をここへ連れ込んだのだ」と思つた。
 見習士官は両足を椅子の脚の背後《うしろ》にからんで腰を掛けてゐて、器械的に匙で茶を掻き廻してゐる。ソロドフニコフも同じく茶を掻き廻してゐる。
 二人共黙つてゐる。
 此時になつて、ソロドフニコフは自分が主人に誤解せられたのだと云ふことに気が附いた。見習士官は杖で窓を叩かれて、これは用事があつて来たのだなと思つたに違ひない。そこで変な工合になつたらしい。かう思つて、ソロドフニコフは不愉快を感じて来た。今二人は随分馬鹿気た事をしてゐるのである。お負にそれがソロドフニコフ自身の罪なのである。体が達者で、身勝手な暮しをしてゐる人の常として、こんな事を長く我慢してゐることが出来なくなつた。
「ひどい天気ですな」と会話の口を切つたが、学士は我ながら詰まらない事を言つてゐると思つて、覚えず顔を赤くした。
「さやうです。天気は実に悪いですな」と、見習士官は早速返事をしてしまつて、跡は黙つてゐる。ソロドフニコフは腹の中で、「へんな奴だ、廻り遠い物の言ひやうをしやがる」と思つた。
 併しこの有様を工合が悪いやうに思ふ感じは、学士の方では間もなく消え失せた。それは職業が医師なので、種々な変つた人、中にも初対面の人と応接する習慣があるからである。それに官吏といふものは皆馬鹿だと思つてゐる。軍人も皆馬鹿だと思つてゐる。そこでそんな人物の前では気の詰まるといふ心持がないからである。
「今君は何をさう念入りに考へてゐたのだね」と、医学士は云つて、腹の中では、こん度もきつと丁寧な、恭《うや/\》しい返辞をするだらうと予期してゐた。言つて見れば、「いゝえ、別になんにも考へてはゐませんでした」なんぞと云ふだらうと思つたのである。
 ところが、見習士官はぢつと首をうな垂れた儘にしてゐて、「死の事ですよ」と云つた。
 ソロドフニコフはも少しで吹き出す所であつた。此男の白つぽい顔や黄いろい髪と、死だのなんのと云ふ、深刻な、偉大な思想とは、奈何《いか》にも不吊合に感ぜられたからである。
 意外だと云ふ風に笑つて、学士は問ひ返した。「妙ですねえ。どうしてそんな陰気な事を考へてゐるのです。」
「誰だつて死の事は考へて見なくてはならないわけです。」
「そして重い罪障を消滅する為めに、難行苦行をしなくてはならないわけですかね」と、ソロドフニコフは揶揄《からか》つた。
「いゝえ、単に死の事丈を考へなくてはならないのです」と、ゴロロボフは落ち着いて、慇懃な調子で繰り返した。
「例之《たとへ》ばわたしなんぞに、どうしてそんな事を考へなくてはならない義務があるのですか」と、ソロドフニコフは右の膝を左の膝の上に畳《かさ》ねて、卓の上に肘を撞きながら、嘲弄《てうらう》する調子で云つた。そして見習士官の馬鹿気た返事をするのを期待してゐた。見習士官だから、馬鹿気た返事をしなくてはならないと思ふのである。
「それは誰だつて死ななくてはならないからです」と、ゴロロボフは前と同じ調子で云つた。
「それはさうさ。併しそれ丈では理由にならないね」と、学士は云つて、腹の中で、多分此男は本当のロシア人ではあるまい、ロシア人がこんなはつきりした、語格の調つた話をする筈がないからと思つた。
 そしてこの色の蒼い、慇懃な見習士官と対坐してゐるのが、急に不愉快になつて、立つて帰らうかと思つた。
 ゴロロボフは此時「わたくしの考へでは只今申した理由丈で十分だと思ふのです」と云つた。
「いや。別に理由が十分だの不十分だのと云つて、君と争ふ積りもないのです」と、ソロドフニコフは嘲るやうに譲歩した。そして不愉快の感じは一層強くなつて来た。それは今まで馬鹿で了簡の狭い男だと思つてゐた此見習士官が、
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング