死だのなんのと云ふ真面目な、意味の深い、恐ろしい問題を論じ出したからである。
「勿論争ふ必要はありません。併し覚悟をして置く必要はあります」と、ゴロロボフが云つた。
「何を」と云つて、ソロドフニコフは両方の眉を額へ高く吊るし上げて、微笑んだ。それは見習士官の最後の詞は、自分の予期してゐた馬鹿気た詞だと思つたからである。
「死ぬる覚悟をする為めに、死といふ事を考へるのです」と、ゴロロボフは云つた。
「馬鹿な。なぜそれを考へなくてはならないのです。わたしが毎日食つて、飲んで、寝てゐるから、それからわたしがいつかは年が寄つて、皺くちやになつて、頭が兀《は》げるから、食ふ事、飲む事、寝る事、頭の兀げる事、その外そんな馬鹿らしい事を、一々のべつに考へてゐなくてはならないと云ふのですか」と、もう好い加減に相手になつてゐるといふ調子で云つて、学士はその坐を立ちさうにした。
「いゝえ。さうではありません」と、見習士官は悲し気に、ゆつくり首を掉《ふ》つた。「さうではありません。先生の御自分で仰やつた通り、それは皆馬鹿気た事です。馬鹿気た事は考へなくても好いのです。併し死は馬鹿気た事ではありません。」
「いやはや。馬鹿気てゐない、尤《もつとも》千万な事で、我々の少しも考へないでゐる事はいくらでもある。それに死がなんです。死ぬる時が来れば死ぬるさ。わたしなんぞは死ぬる事は頗る平気です。」
「いゝえ。そんな事は不可能です。死の如き恐るべき事に対して、誰だつて平気でゐられる筈がありません」と、ゴロロボフは首を掉つた。
「わたしは平気だ」と、ソロドフニコフは肩を聳やかして云つた。
「そんなら先生は自己の境界を正確に領解してお出でにならないと云ふものです。」
 ソロドフニコフの頭へ血が上つた。そして腹の中で、「なんと云ふ物の言振をしやがるのだ、藁のやうな毛を生やしてゐる餓鬼奴が」と思つた。
「そんなら君は自己の境界を領解してゐますか。」
「ゐます。」
「ふん。こりやあ承《うけたまは》り物だ。」
「人間は誰でも死刑の宣告を受けたものと同じ境界にゐるのです。」
 これは昔から知れ切つてゐる事で人が度々言ひ古した事だと、ソロドフニコフははつきり思つた。そして忽ち安心した。昔から人の言ひ古した事を、さも新しさうに云つてゐる此見習士官よりは、自分は比べ物にならない程高い処にゐると感じたのである。
「古い洒落だ」と、ソロドフニコフは云つた。そしてポケツトから葉巻入れを出して、葉巻に一本火を附けて帰らうとした。
 その時ゴロロボフが云つた。「わたくしが昔から人の言はない、新しいことを言はなくてはならないといふ道理はございません。わたくしはたゞ正しい思想を言ひ表せば宜しいと思ひます。」
「ふん。なる程」と、ソロドフニコフは云つて、今の場合に、正しい思想といふことが云はれるだらうかと、覚えず考へて見た。それから「それは無論の事さ」と云つたが、まだ疑が解けずにゐた。さて「併し死に親むまでにはたつぷり時間があるから、その間に慣れれば好いのです」と結んだ。かう云つて見たが、どうも自分の言ふべき筈の事を言つたやうな心持がしないので、自分に対してではなく、却つて見習士官に対して腹を立てた。
「わたくしの考へでは、それは死刑の宣告を受けた人に取つては、慰藉とする価値が乏しいやうです。宣告を受けた人は刑せられる時の事しか思つてゐないでせう。」かう云つて置いて、さも相手の意見を聞いて見たいといふやうな顔をして学士を見ながら、語り続けた。その表情が顔の恰好に妙に不似合に見えた。
「それとも先生はさうでないとお思ひですか。」
 医学士はこの表情で自分を見られたのが、自尊心に満足を与へられたやうな心持がした。そこで一寸考へて見て、口から煙を吹いて、項《うなじ》を反らして云つた。「いや。わたしもそれはさうだらうと思ふ。無論でせう。併し死刑といふものは第一に暴力ですね。或る荒々しい、不自然なものですね。それに第二にどちらかと云へば人間に親んでゐるのは」と云ひ掛けた。
「いゝえ。死だつても矢張不自然な現象で、或る暴力的なものです」と、見習士官は直ぐに答へた。丁度さう云ふ問題を考へてゐた所であつたかと思はれるやうな口気《こうき》である。
「ふん。それは只空虚な言語に過ぎないやうですな」と、毒々しくなく揶揄《からか》ふやうに、ソロドフニコフが云つた。
「いゝえ。わたくしは死にたくないのに死ぬるのです。わたくしは生きたい。生き得る能力がある。それに死ぬるのです。暴力的で不自然ではありませんか。実際がさうでないなら、わたくしの申す事が空虚な言語でせう。所が、実際がさうなのですから、わたくしの申す事は空虚な言語ではありません。事実です。」ゴロロボフは此詞を真面目でゆつくり言つた。
「併し死は天則ですからね」と、ソロドフニコフは肩を聳やかして叫んだ。そして室内の空気が稠厚《ちうこう》になつて来て、頭痛のし出すのを感じた。
「いゝえ。死刑だつて或る法則に循《したが》つて行はれるものです。その法則が自然から出てゐたつて、自然以外の或る威力から出てゐたつて、同じ事です。そして自然以外の威力は可抗力なのに、自然は不可抗力ですから、猶更堪へ難いのです。」
「それはさうです。併し我々は死ぬる月日は知らないのですからね」と、学士は不精不精に譲歩した。
「それはさうです」とゴロロボフは承認して置いて、それからかう云つた。「併し死刑の宣告を受けた人は、処刑の日を前知してゐる代りには、いよいよ刑に逢ふまで、若し赦免になりはすまいか、偶然助かりはすまいか、奇蹟がありはすまいかなんぞと思つてゐるのです。死の方になると、誰も永遠に生きられようとは思はないのです。」
「併し誰でもなる丈長く生きようと思つてゐますね。」
「そんな事は出来ません。人の一生涯は短いものです。其に生きようと思ふ慾は大いのです。」
「誰でもさうだと云ふのですか」と、嘲笑を帯びて、ソロドフニコフは問うた。そして可笑しくもない事を笑つたのが、自分ながらへんだと思つた。
「無論です。或るものは意識してさう思ふでせう。或るものは無意識にさう思ふでせう。人の生涯とは人そのものです。自己です。人は何物をも自己以上に愛するといふことはないのです。」
「だからどうだと云ふのですか。」
「どうも分かりません。先生は何をお尋ねなさるのでせう」とゴロロボフが云つた。
 ソロドフニコフはこの予期しない問を出されて、思量の端緒を失つてしまつた。そして暫くの間は、茫然として、顔を赤くして見習士官の顔を見てゐて、失つた思量の端緒を求めてゐた。然るにそれが獲られない。それに反して、今ゴロロボフが多分己を馬鹿だと思つてゐるだらう。己を冷笑してゐるだらうと思はれてならない。さう思ふと溜まらない心持になる。そして一旦は真蒼になつて、その跡では真赤になつた。太つた白い頸に血が一ぱい寄つて来た。間もなくこの憤懣の情が粗暴な、意地の悪い表情言語になつて迸《ほとばし》り出た。わざと相手を侮辱して遣らうと思つたのである。学士は自分の顔を、ずつと面皰《にきび》だらけのきたない相手の顔の側へ持つて行つて、殆ど歯がみをするやうな口吻《こうふん》で、「一体君はなんの為めにこんな馬鹿な事を言つてゐるのです」と叫んだ。それがもつと激烈な事を言ひたいのをこらへてゐるといふ風であつた。
 ゴロロボフはすぐに立ち上がつて、一寸会釈をした。そしてソロドフニコフがまだなんとも考へる暇のないうちに、すぐに又腰を掛けて、頗る小さい声で、しかもはつきりとかう云つた。「なんの為めでもありません。わたくしはさう感じ、さう信じてゐるからです。そして自殺しようと思つてゐるからです。」
 ソロドフニコフは両方の目を大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いて、唇を動かしながら、見習士官の顔を凝視した。見習士官は矢張前のやうにぢつとして据わつてゐて、匙で茶碗の中を掻き廻してゐる。ソロドフニコフはそれを凝視してゐればゐる程、或る事件がはつきりして来るやうに思はれた。その考へは頭の中をぐる/\廻つてゐる。一しよう懸命に気を鎮めようとするうちに、忽ち頭の中が明るくなるのを感じた。併しまだその事件が十分に信じ難いやうに思はれた。そして問うた。
「ゴロロボフ君。君はまさか気が違つてゐるのではあるまいね。」
 ゴロロボフは涙ぐんで来て、高く聳やかした、狭い肩をゆすつた。「わたくしも最初はさう思ひました。」
「そして今はどう思ふのですか。」
「今ですか。今は自分が気が違つてゐない、自分が自殺しようと思ふのに、なんの不合理な処もないと思つてゐます。」
「それではなんの理由もなく自殺をするのですか。」
「理由があるからです」と、ゴロロボフは詞を遮るやうに云つた。
「その理由は」と、ソロドフニコフは何を言ふだらうかと思ふらしく問うた。
「さつきあれ程|精《くは》しくお話申したではありませんか」と、ゴロロボフは問はれるのがさも不思議なといふ風で答へた。そして暫く黙つてゐて、それから慇懃に、しかもなんだか勉強して説明するといふ調子で云つた。「わたくしの申したのは、詰まり人生は死刑の宣告を受けてゐると同じものだと見做すと云ふのです。そこでその処刑の日を待つてゐたくもなく、又待つてゐる気力もありませんから、寧ろ自分で。」
「それは無意味ですね。そんなら暴力を遁《のが》れようとして暴力を用ゐると云ふもので。」
「いゝえ。暴力を遁れようとするのではありません。それは遁れられはしません。死刑の宣告を受けてゐる命を早く絶つてしまはうと云ふのです。寧ろ早く絶たうと。」
 ソロドフニコフはこれを聞いたとき、なんだか心持の悪い、冷たい物を背中に浴びたやうで、両方の膝が顫えて来た。口では、「併しさうしたつて同じ事ではありませんか」と云つた。
「いゝえ。わたくしの霊が自然に打ち勝つのです。それが一つで、それから。」
「でもその君の霊といふものも、君の体と同じやうに、矢張自然が造つたもので。」
 忽ちゴロロボフが微笑んだ。ソロドフニコフは始て此男の微笑むのを見た。そしてそれを見てぎよつとした。大きい口がへんにゆがんで、殆ど耳まで裂けてゐるやうになつてゐる。小さい目をしつかり瞑《ねむ》つてゐる。そのぼやけた顔附が丸で酒に酔つておめでたくなつたといふやうな風に見えるのである。ゴロロボフは微笑んで答へた。「それは好く知つてゐます。どちらも自然の造つたものには違ひありませんが、わたくしの為めには軽重《けいぢゆう》があります。わたくしの霊といふとわたくし自己です。体は仮の宿に過ぎません。」
「でも誰かがその君の体を打つたら、君だつて痛くはないですか。」
「えゝ。痛いです。」
「さうして見れば。」
 ゴロロボフは相手の詞を遮つた。「若しわたくしの体がわたくし自己であつたら、わたくしは生きてゐることになるでせう。なぜといふに、体といふものは永遠です。死んだ跡にも残つてゐます。さうして見れば死は処刑の宣告にはならないのです。」
 ソロドフニコフは余儀なくせられたやうに微笑んだ。「これまで聞いたことのない、最も奇抜な矛盾ですね。」
「いゝえ。奇抜でもなければ、矛盾でもないです。体が永遠だと云ふ事は事実です。わたくしが死んだら、わたくしの体は分壊して原子になつてしまふのでせう。その原子は別な形体になつて、原子そのものは変化しません。又一つも消滅はしません。わたくしの体の存在してゐる間有つた丈の原子は死んだ跡でも依然として宇宙間に存在してゐます。事に依つたら、一歩を進めて、その原子が又た同じ組立を繰り返して、同じ体を拵へるといふことも考へられませう。そんな事はどうでも好いのです。霊は死にます。」
 ソロドフニコフは力を入れて自分の両手を握り合せた。もう此見習士官を狂人だとは思はない。そしてその言つてゐる事が意味があるかないか、それを判断することが出来なくなつた。気が沈んで来た。見習士官の詞と、薄暗いランプの光と、自分の思量と、いやにがらんとした部屋とから、陰気なやうな、咄々《とつ/\》人
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