いやはや。馬鹿気てゐない、尤《もつとも》千万な事で、我々の少しも考へないでゐる事はいくらでもある。それに死がなんです。死ぬる時が来れば死ぬるさ。わたしなんぞは死ぬる事は頗る平気です。」
「いゝえ。そんな事は不可能です。死の如き恐るべき事に対して、誰だつて平気でゐられる筈がありません」と、ゴロロボフは首を掉つた。
「わたしは平気だ」と、ソロドフニコフは肩を聳やかして云つた。
「そんなら先生は自己の境界を正確に領解してお出でにならないと云ふものです。」
 ソロドフニコフの頭へ血が上つた。そして腹の中で、「なんと云ふ物の言振をしやがるのだ、藁のやうな毛を生やしてゐる餓鬼奴が」と思つた。
「そんなら君は自己の境界を領解してゐますか。」
「ゐます。」
「ふん。こりやあ承《うけたまは》り物だ。」
「人間は誰でも死刑の宣告を受けたものと同じ境界にゐるのです。」
 これは昔から知れ切つてゐる事で人が度々言ひ古した事だと、ソロドフニコフははつきり思つた。そして忽ち安心した。昔から人の言ひ古した事を、さも新しさうに云つてゐる此見習士官よりは、自分は比べ物にならない程高い処にゐると感じたのである。
「古い洒
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