青空から星がきらめいてゐたことだけを覚えてゐる。
 パン屋の入口の戸がこん度は広く開け放してある。人道に巡査が一人と、それからよく見えない、気を揉んでゐるらしい人が二三人と立つてゐる。さつきのやうに焼き立てのパンと捏ねたパン粉との匂のする廊下へ、奉公人だの巡査だのが多勢押し込んでゐる。ソロドフニコフには其人数がひどく多いやうに思はれた。やはりさつきのやうにランプの附いてゐる、見習士官の部屋の戸も広く開いてゐる。室内は空虚で、ひつそりしてゐる。見れば、ゴロロボフはひどく不自然な姿勢で部屋の真中に、ランプの火に照らされて、猫が香箱《かうばこ》を造つてゐるやうになつて転がつてゐる。室内は少しも取り乱してはない。何もかも二時間前に見たと同じである。
「御覧なさい。小銃で自殺してゐます。散弾です。丸で銃身の半分もあるほど散弾を詰め込んで、銃口を口に含んで発射したのです。いやはや」と、警部プリスタフは云つた。
 プリスタフはいろ/\な差図をした。体を持ち上げて寝台《ねだい》の上に寝かした。赤い、太つた顔の巡査が左の手で自分のサアベルの鞘を握つてゐて、右の手でゴロロボフの頭を真直に直して置いて、その手で十字を切つた。下顎が熱病病みのやうにがたがた顫えてゐる。
 ソロドフニコフの為めには、一切の事が夢のやうである。その癖かういふ場合にすべき事を皆してゐる。文案を作る。署名する。はつきり物を言ふ。プリスタフの問に答へる。併しそれが皆器械的で、何もかもどうでも好い、余計な事だといふやうな、ぼんやりした心理状態で遣つてゐる。又しては見習士官の寝かしてある寝台へ気が引かれてならぬのである。
 ソロドフニコフはこの時はつきり見習士官ゴロロボフが死んでゐるといふことを意識してゐる。もう見習士官でもなければ、ゴロロボフでもなければ、人間でもなければ動物でもない。死骸である。いぢつても、投げ附けても、焼いても平気なものである。併しソロドフニコフは同時にこれが見習士官であつたことを意識してゐる。その見習士官がどうしてかうなつたといふことは、不可解で、無意味で、馬鹿気てゐる。併し恐ろしいやうだ。哀れだ。
 かういふ悲痛の情は、気の附かないうちに、忽然浮かんで来た。
 ソロドフニコフはごくりと唾を呑み込んで、深い溜息をして、その外にはしやうのないらしい様子で、絶望的な泣声を立てた。
「水を」と、プリスタ
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