分の前に燃えてゐる明るい、赤い蝋燭の火と、その向うの蒼ざめた、びつくりしたやうな顔とを見た。
それは家来のパシユカの顔であつた。手に蝋燭を持つて、前に立つてゐるのである。
「旦那様。どなたかお出ですが」と、パシユカが云つた。
ソロドフニコフは茫然として家来の顔を凝視してゐて、腹の中で、なんだつてこいつは夜なかに起きて来たのだらう、あんな蒼い顔をしてと思つた。ふいと見ると、パシユカの背後《うしろ》に今一つ人の顔がある。見覚えのある、いやに長い顔である。
「なんの御用ですか」と、ソロドフニコフは物分かりの悪いやうな様子で問うた。
「先生。御免下さい」と、背後の顔が云つて、一足前へ出た。好く見れば、サアベルを吊つた、八字髭の下へ向いてゐる、背の高い警部であつた。「甚だ御苦労でございますが、ちよつとした事件が出来《しゆつたい》しましたのです。それにレオニツド・グレゴレヰツチユが市中にゐないものですから。」
レオニツド・グレゴレヰツチユといふのは、市医であつたといふことを、ソロドフニコフはやうやうの事で思ひ出した。
「志願兵が一名小銃で自殺しましたのです」と、警部は自殺者が無遠慮に夜なかなんぞに自殺したのに、自分が代つて謝罪するやうな口吻《こうふん》で云つた。
「見習士官でせう」と、ソロドフニコフは器械的に訂正した。
「さうでした。見習士官でした。もう御承知ですか。ゴロロボフといふ男です。すぐに検案して戴かなくては」と、警部は云つた。
ソロドフニコフは何かで額をうんと打たれたやうな心持がした。
「ゴロロボフですな。本当に自殺してしまひましたか」と、ひどく激した調子で叫んだ。
警部プリスタフの八字髭がひどく顫えた。「どうしてもう御存じなのですか。」
「無論知つてゐるのです。わたしに前以て話したのですから」と、医学士は半分咬み殺すやうに云つて、足の尖で長靴を探つた。
「どうして。いつですか」と、突然変つた調子で警部が問うた。
「わたしに話したのです。話したのです。あとでゆつくりお話しします」と、半分口の中でソロドフニコフが云つた。
――――――――――――
見習士官の家までは五分間で行かれるのに、門の前には辻馬車が待たせてあつた。ソロドフニコフはいつどうして其馬車に腰を掛けたやら、いつ見習士官の家の前に著いて馬車を下りたやら覚えない。只もう雨が止んで、晴れた
前へ
次へ
全19ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング