つて死ぬるだらう。死ぬるといふことがわけもないものだといふ事は、己は知つてゐる。どうなつて死ぬるといふことは、己は知つてゐる。併しどうしてそれを防ぎやうもない。死ぬるのだな。事に依つたら明日かも知れない。今かも知れない。さつきあの窓の外に立つてゐるとき風を引いてゐる。これから死ぬるのかも知れない。どうも体は健康なやうには思はれるが、体のどこかではもう分壊作用が始まつてゐるらしい。」
 ソロドフニコフは自分で脈を取つて見た。併し間もなくそれを止めた。そして絶望したやうに、暗くてなんにも見えない天井を凝視してゐた。自分の頭の上にも、体の四方にも、冷たい、濃い鼠色の暗黒がある。その闇黒の為めに自分の思想が一層恐ろしく、絶望的に感ぜられる。
「兎に角死ぬるのを防ぐ事は出来ない。一瞬間でも待つて貰ふことは出来ない。早いか晩《おそ》いか死ななくてはならない。不老不死の己ではない。その癖己をはじめ、誰でも医学を大した学問のやうに思つてゐる。今日の命を繋ぎ、明日の命を繋いだところで、どうせ皆死ぬるのだ。丈夫な奴も死ぬる。病人も死ぬる。実に恐ろしい事だ。己は死を恐れはしない。併しなんだつて死といふものに限つて遣つて来なくてはならないのだらう。なんの意味があるのだらう。誰が死といふものを要求するのだらう。いや。実際は己にも気になる。己にも気になる。」
 ソロドフニコフは忽然思量の糸を切つた。そして復活といふことと、死後の性命といふこととを考へて見た。その時或る軟い、軽い、優しいものが責めさいなまれてゐる脳髄の上へかぶさつて来るやうな心持がして、気が落ち付いて快くなつた。
 併し間もなくまた憎悪、憤怒《ふんど》、絶望がむらむらと涌《わ》き上がつて来る。
「えゝ。馬鹿な事だ。誰がそんな事を信ずるものか。己も信じはしない。信ぜられない。そんな事になんの意味がある。誰が体のない、形のない、感情のない、個性のない霊といふものなんぞが、※[#「さんずい+景+頁」、第3水準1−87−32]気《かうき》の中を飛び廻つてゐるのを、なんの用に立てるものか。それはどつちにしても恐怖はやはり存在する。なぜといふに、死といふ事実の外は、我々は知ることが出来ないのだから。あの見習士官の云つた通りだ。永遠に恐怖を抱いてゐるよりは、寧ろ自分で。」
「寧ろ自分で」とソロドフニコフは繰り返して、夢の中で物を見るやうに、自
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