フは巡査に云つた。その声がなぜだか脅《おびや》かすやうな調子であつた。
 その巡査はどたばたして廊下へ飛び出して、その拍子にサアベルの尻を入口の柱にぶつ附けた。その隙《ひま》にプリスタフは頻にソロドフニコフを宥《なだ》めてゐる。「先生。どうしたのです。なぜそんなに。それは気の毒は気の毒です。併しどうもしやうがありませんからな。」
 年寄つた大男の巡査が素焼の茶碗に水を入れて持つて来た。顔は途方に暮れてゐるやうである。
 プリスタフはそれを受け取つて、「さあ、お上がんなさい。お上がんなさい」と侑《すゝ》めた。
 ソロドフニコフはパンと麹との匂のする生温《なまぬる》い水を飲んだ。その時歯が茶碗に障《さは》つてがちがちと鳴つた。
「やれやれ。御気分が直りましたでせう。さあ、門までお送り申しませう。死んだものは死んだものに致して置きませう」と、プリスタフは愉快らしく云つた。
 ソロドフニコフは器械的に立ち上がつて、巡査の取つてくれる帽を受け取つて、廊下へ歩み出した。廊下はさつきの焼き立てのパンと麹との匂の外に、多勢の人間が置いて行つた生生《いき/\》した香がしてゐる。それから階段の所へ出た。
 その時見えた戸外の物が、ソロドフニコフには意外なやうな心持がした。
 夜が明けてゐる。空は透明に澄んでゐる。雨は止んだが、空気が湿つてゐる。何もかも洗ひ立てのやうに光つてゐる。緑色がいつもより明るく見える。丁度ソロドフニコフの歩いて行く真正面に、まだ目には見えないが、朝日が出掛かつてゐる。そこの所の空はまばゆいほど明るく照つて、燃えて、輝いてゐる。空気は自由な、偉大な、清浄な、柔軟な波動をして、震動しながらソロドフニコフの胸に流れ込むのである。
「ああ」と、ソロドフニコフは長く引いて叫んだ。
「好い朝ですな」と、プリスタフは云つて、帽を脱いで、愉快気に兀頭《はげあたま》を涼しい風に吹かせた。そして愉快気に云つた。「長い雨のあとで天気になつたといふものは心持の好いものですね。兎に角世界は美しいですね。それをあの先生はもう味ふことが出来ないのだ。」
 雀が一羽ちよちよと鳴きながら飛んで行つた。ソロドフニコフはそのあとを眺めて、「なんといふさうざうしい小僧だらう」と、愉快に感じた。
 プリスタフは人の好ささうな、無頓著らしい顔へ、無理に意味ありげな皺を寄せて、「それでは御機嫌よろしう、まだ
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