駕籠一挺毎に、装剣の銃を持った六人の兵が附く。二十挺の前後は、同じく装剣の銃を持った兵が百二十人で囲んでいる。後押《あとおさえ》は銃を負った騎兵二騎である。次に両藩の高張提灯《たかはりぢょうちん》各十挺が行く。次に両藩士卒百数十人が行く。以上の行列の背後に少し距離を取って、土佐藩の重臣始め数百人が続く。長径|凡《およ》そ五丁である。
 長堀を出発して暫く進んでから、山川亀太郎が駕籠に就いて一人々々に挨拶して、箕浦の駕籠に戻ってからこう云った。
「狭い駕籠で、定めて窮屈でありましょう。その上長途の事ゆえ、簾《すだれ》を垂れたままでは、鬱陶《うっとう》しく思われるでありましょう。簾を捲かせましょうか」と云った。
「御厚意|忝《かたじけの》う存じます。差構《さしかまい》ない事なら、さよう願いましょう」と、箕浦が答えた。
 そこで駕籠の簾は総て捲き上げられた。
 又暫く進むと、山川が一人々々の駕籠に就いて、
「茶菓の用意をしていますから、お望の方に差し上げたい」と云った。
 両藩の二十人に対する取扱は、万事非常に鄭重《ていちょう》なものである。
 住吉|新慶町《しんけいまち》辺に来ると、兼《かね》て六番、八番の両隊が舎営していたことがあるので、路傍に待ち受けて別《わかれ》を惜むものがある。堺の町に入れば、道の両側に人山《ひとやま》を築いて、その中から往々|欷歔《すすりなき》の声が聞える。群集を離れて駕籠に駆け寄って、警固の兵卒に叱られるものもある。
 切腹の場所と定められたのは妙国寺《みょうこくじ》である。山門には菊御紋の幕を張り、寺内には総て細川、浅野両家の紋を染めた幕を引き繞《めぐ》らし、切腹の場所は山内家の紋を染めた幕で囲んである。門内に張った天幕の内には、新しい筵《むしろ》が敷き詰めてある。
 行列が妙国寺門前に着くと、駕籠を門内天幕の中に舁き入れて、筵の上に立て並べた。次いで両藩士が案内して、駕籠は内庭へ舁き入れられ、本堂の縁に横付にせられた。
 二十人は駕籠を出て、本堂に居並んだ。座の周囲《まわり》には、両藩の士卒が数百人詰めていて、二十人の中一人が座を起てば、四人が取り巻いて行く。二十人は皆平常のように談笑して、時刻の来るのを待っていた。
 この時両藩の士の中に筆紙墨《ひっしぼく》を用意していたものがある。それが二十人の首席にいる箕浦の前に来て、後日の記念に何か一筆願いたいといった。
 元六番歩兵隊長箕浦猪之吉は、源姓《みなもとせい》、名は元章《げんしょう》、仙山《せんざん》と号している。土佐国土佐郡|潮江《うしおえ》村に住んで五人扶持、十五石を受ける扈従格《こじゅうかく》の家に、弘化元年十一月十一日に生れた。当年二十五歳である。祖父忠平、父を万次郎と云う。母は依田氏、名は梅である。安政四年に江戸に遊学し、万延元年には江戸で容堂侯の侍読になり、同じ年に帰国して文館の助教に任ぜられた。次いで容堂侯の扈従を勤めて、七八年経過し、馬廻格《うままわりかく》に進んだ。それが藩の歩兵小隊司令を命ぜられたのは、慶応三年十一月で、僅《わず》か三箇月勤めているうちに、堺の事件が起った。そういう履歴の人だから、箕浦は詩歌の嗜《たしみ》もあり、書は草書を立派に書いた。
 文房具を前に置かれた時、箕浦は、
「甚だ見苦しゅうはございまするが」と挨拶して、腹稾《ふっこう》[#底本では「稾」の「禾」の部分が「木」、昭和60年5月20日36刷改版から「稾」をそのまま使用しているため、このまま「稾」を採用]の七絶を書いた。
「除却妖氛答国恩《ようふんをじょきゃくしこくおんにこたう》。決然豈可省人言《けつぜんあにじんげんをせいすべけんや》。唯教大義伝千載《ただたいぎをしてせんざいにつたえしむ》。一死元来不足論《いっしがんらいろんずるにたらず》」攘夷はまだこの男の本領であったのである。
 二十人が暫《しばら》く待っていると、細川藩士がまだなかなか時刻が来そうにないと云った。そこで寺内を見物しようと云うことになった。庭へ出て見ると、寺の内外は非常な雑沓《ざっとう》である。堺の市中は勿論、大阪、住吉、河内在等から見物人が入り込んで、いかに制しても立ち去らない。鐘撞堂《かねつきどう》には寺の僧侶が数人登って、この群集を見ている。八番隊の垣内がそれに目を着けて、つと堂の上に登って、僧侶に言った。
「坊様達、少し退《の》いて下されい。拙者は今日切腹して相果てる一人じゃ。我々の中間《なかま》には辞世の詩歌などを作るものもあるが、さような巧者な事は拙者には出来ぬ。就いてはこの世の暇乞に、その大鐘を撞いて見たい。どりゃ」と云いさま腕まくりをして撞木《しゅもく》を掴んだ。僧侶は驚いて左右から取り縋《すが》った。
「まあまあ、お待ち下さりませ。この混雑の中で鐘が鳴ってはどんな騒動になろうも知れません。どうぞそれだけは御免下さりませ」
「いや、国家のために忠死する武士の記念じゃ。留めるな」
 垣内と僧侶とは揉《も》み合っている。それを見て垣内の所へ、中間の二三人が駆け附けた。
「大切な事を目前に控えていながら、それは余り大人気ない。鐘を鳴らして人を驚かしてなんになる。好く考えて見給え」と云って留めた。
「そうか。つい興に乗じて無益の争をした。罷《や》める罷める」と垣内は云って、撞木から手を引いた。垣内を留めた中間の一人が懐《ふところ》を探って、
「ここに少し金がある、もはや用のない物じゃ、死んだ跡にお世話になるお前様方に献じましょう」と云って、僧侶に金をわたした。垣内と僧侶との争論を聞き付けて、次第に集って来た中間が、
「ここにもある」
「ここにも」と云いながら、持っていただけの金銭を出して、皆僧侶の前に置いた。中には、
「拙者は冥福《みょうふく》を願うのではないが」と、条件を附けて置くものもあった。僧侶は金を受けて鐘撞堂を下った。
 人々は鐘撞堂を降りて、
「さあ、これから切腹の場所を拝見して置こうか」と、幔幕《まんまく》で囲んだ中へ這入り掛けた。細川藩の番士が、
「それはお越《こし》にならぬ方が宜しゅうございましょう」と云って留めた。
「いや、御心配御無用、決して御迷惑は掛けません」と言い放って、一同幕の中に這入った。
 場所は本堂の前の広庭である。山内家の紋を染めた幕を引き廻した中に、四本の竹竿《たけざお》を竪《た》てて、上に苫《とま》が葺《ふ》いてある。地面には荒筵《あらむしろ》二枚の上に、新しい畳二枚を裏がえしに敷き、それを白木綿で覆《おお》い、更に毛氈《もうせん》一枚を襲《かさ》ねてある。傍に毛氈が畳んだままに積み上げてあるのは、一人々々取り替えるためであろう。入口の側に卓《つくえ》があって、大小が幾組も載せてある。近づいて見れば、長堀の邸《やしき》で取り上げられた大小である。
 人々は切腹の場所を出て、序《ついで》に宝珠院《ほうじゅいん》の墓穴も見て置こうと、揃って出掛けた。ここには二列に穴が掘ってある。穴の前には高さ六尺余の大瓶《おおがめ》が並べてある。しかもそれには一々名が書いて貼《は》ってある。それを読んで行くうちに、横田が土居に言った。
「君と僕とは生前にも寝食を倶《とも》にしていたが、見れば瓶《かめ》も並べてある。死んでからも隣同士話が出来そうじゃ」と云った。
 土居は忽ち身を跳《おど》らせて瓶の中に這入って叫んだ。
「横田君々々々。なかなか好い工合じゃ」
 竹内が云った。
「気の早い男じゃ。そう急がんでも、じきに人が入れてくれる。早く出て来い」
 土居は瓶から出ようとするが、這入る時とは違って、瓶の縁は高し、内面はすべるので、なかなか出られない。横田と竹内とで、瓶を横に倒して土居を出した。
 二十人は本堂に帰った。そこには細川、浅野両藩で用意した酒肴《しゅこう》が置き並べてある。給仕には町から手伝人が数十人来ている。一同挨拶して杯を挙げた。前に箕浦に詩を貰った人を羨《うらや》んで、両藩の士卒が争って詩歌を求め、或は記念として身に附いた品を所望する。人々はかわるがわる筆を把《と》った。又記念に遣る物がないので、襟《えり》や袖《そで》を切り取った。

 切腹はいよいよ午《うま》の刻からと定められた。
 幕の内へは先ず介錯人《かいしゃくにん》が詰めた。これは前晩大阪長堀の藩邸で、警固の士卒が二十人のものに馳走をした時、各相談して取り極《き》めたのである。介錯人の姓名は、元六番隊の方で箕浦のが馬淵《まぶち》〔馬場〕桃太郎[#24刷時点では「〔場〕桃太郎」だが、63刷時点では「〔馬場〕桃太郎」に修正されている]、池上のが北川礼平、杉本のが池七助、勝賀瀬のが吉村材吉、山本のが森常馬、森本のが野口喜久馬、北代のが武市助吾、稲田のが江原源之助、柳瀬のが近藤茂之助、橋詰のが山田安之助、岡崎のが土方要五郎、川谷のが竹本謙之助、元八番隊の方で、西村のが小坂乾、大石のが落合源六、竹内のが楠瀬柳平、横田のが松田八平次、土居のが池七助、垣内のが公文左平、金田のが谷川新次、武内のが北森貫之助である。中で池七助は杉本と土居との二人を介錯する筈である。いずれも刀の下緒《さげお》を襷《たすき》にして、切腹の座の背後《うしろ》に控えた。
 幕の外には別に駕籠が二十挺据えてある。これは死骸を載せて宝珠院に運ぶためである。埋葬の前に、死骸は駕籠から大瓶に移されることになっている。
 臨検の席には外国事務総裁|山階宮《やましなのみや》を始として、外国事務係伊達少将、同東久世少将、細川、浅野両藩の重役等が、南から北へ向いて床几《しょうぎ》に掛かる。土佐藩の深尾は北から東南に向いてすわる。大目附小南以下目附等は西北から東に向いて並ぶ。フランス公使は銃を持った兵卒二十余人を随《したが》えて、正面の西から東に向いてすわる。その他薩摩、長門、因幡《いなば》、備前《びぜん》等の諸藩からも役人が列席している。
 用意の整ったことを、細川、浅野の藩士が二十人のものに告げる。二十人のものは本堂の縁から駕籠に乗り移る。駕籠の両側には途中と同じ護衛が附く。駕籠は幕の外に立てられる。呼出の役人が名簿を繰り開いて、今首席のものの名を読み上げようとする。
 この時天が俄《にわか》に曇って、大雨が降って来た。寺の内外に満ちていた人民は騒ぎ立って、檐下《のきした》木蔭に走り寄ろうとする。非常な雑沓である。
 切腹は一時見合せとなって、総裁宮始、一同屋内に雨を避けた。雨は未《ひつじ》の刻に歇《や》んだ。再度の用意は申《さる》の刻に整った。
 呼出の役人が「箕浦猪之吉」と読み上げた。寺の内外は水を打ったように鎮《しずま》った。箕浦は黒羅紗《くろらしゃ》の羽織に小袴《こばかま》を着して、切腹の座に着いた。介錯人馬場は三尺隔てて背後に立った。総裁宮以下の諸官に一礼した箕浦は、世話役の出す白木の四方を引き寄せて、短刀を右手《めて》に取った。忽ち雷のような声が響き渡った。
「フランス人共聴け。己《おれ》は汝等《うぬら》のためには死なぬ。皇国のために死ぬる。日本男子の切腹を好く見て置け」と云ったのである。
 箕浦は衣服をくつろげ、短刀を逆手《さかて》に取って、左の脇腹へ深く突き立て、三寸切り下げ、右へ引き廻して、又三寸切り上げた。刃が深く入ったので、創口《きずぐち》は広く開いた。箕浦は短刀を棄てて、右手を創に※[#「※」は「插」のつくりの縦棒が下に突き抜けている、184−4]し込んで、大網《だいもう》を掴んで引き出しつつ、フランス人を睨《にら》み付けた。
 馬場が刀を抜いて項《うなじ》を一刀切ったが、浅かった。
「馬場君。どうした。静かに遣れ」と、箕浦が叫んだ。
 馬場の二の太刀は頸椎《けいつい》を断って、かっと音がした。
 箕浦は又大声を放って、
「まだ死なんぞ、もっと切れ」と叫んだ。この声は今までより大きく、三丁位響いたのである。
 初から箕浦の挙動を見ていたフランス公使は、次第に驚駭《きょうがい》と畏怖《いふ》とに襲われた。そして座席に安んぜなくなっていたのに、この意外に大きい声を、意外な時に聞いた公使は、とうとう立ち
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