上がって、手足の措所《おきどころ》に迷った。
 馬場は三度目にようよう箕浦の首を墜《おと》した。
 次に呼び出された西村は温厚な人である。源姓、名は氏同《うじあつ》。土佐郡江の口村に住んでいた。家禄四十石の馬廻である。弘化二年七月に生れて、当年二十四歳になる。歩兵小隊司令には慶応三年八月になった。西村は軍服を着て切腹の座に着いたが、服の釦鈕《ぼたん》を一つ一つ丁寧にはずした。さて短刀を取って左に突き立て、少し右へ引き掛けて、浅過ぎると思ったらしく、更に深く突き立てて緩《ゆるや》かに右へ引いた。介錯人の小坂は少し慌《あわ》てたらしく、西村がまだ右へ引いているうちに、背後から切った。首は三間ばかり飛んだ。
 次は池上で、北川が介錯した。次の大石は際立った大男である。先ず両手で腹を二三度|撫《な》でた。それから刀を取って、右手で左の脇腹を突き刺し、左手《ゆんで》で刀背《とうはい》を押して切り下げ、右手に左手を添えて、刀を右へ引き廻し、右の脇腹に至った時、更に左手で刀背を押して切り上げた。それから刀を座右に置いて、両手を張って、「介錯頼む」と叫んだ。介錯人落合は為損《しそん》じて、七太刀目に首を墜した。切腹の刀の運びがするすると渋滞なく、手際の最も立派であったのは、この大石である。
 これから杉本、勝賀瀬、山本、森本、北城、稲田、柳瀬の順序に切腹した。中にも柳瀬は一旦左から右へ引き廻した刀を、再び右から左へ引き戻したので腸《はらわた》が創口から溢《あふ》れて出た。
 次は十二人目の橋詰である。橋詰が出て座に着く頃は、もう四辺《あたり》が昏《くら》くなって、本堂には燈明が附いた。
 フランス公使はこれまで不安に堪えぬ様子で、起ったり居たりしていた。この不安は次第に銃を執《と》って立っている兵卒に波及した。姿勢は悉《ことごと》く崩れ、手を振り動かして何事かささやき合うようになった。丁度橋詰が切腹の座に着いた時、公使が何か一言云うと、兵卒一同は公使を中に囲んで臨検の席を離れ、我皇族並に諸役人に会釈もせず、あたふたと幕の外に出た。さて庭を横切って、寺の門を出るや否や、公使を包擁《ほうよう》した兵卒は駆歩《かけあし》に移って港口へ走った。

 切腹の座では橋詰が衣服をくつろげて、短刀を腹に立てようとした。そこへ役人が駆け付けて、「暫く」と叫んだ。驚いて手を停めた橋詰に、役人はフランス公使退席の事を話して、ともかくも一時切腹を差し控えられたいと云った。橋詰は跡に残った八人の所に帰って、仔細《しさい》を話した。
 とても死ぬるものなら、一思《ひとおもい》に死んでしまいたいと云う情に、九人が皆支配せられている。留められてもどかしいと感ずると共に、その留めた人に打《ぶ》っ附かって何か言いたい。理由を問うて見たい。一同小南の控所に往って、橋詰が口を開いた。
「我々が朝命によって切腹いたすのを、何故にお差留になりましたか。それを承りに出ました」
 小南は答えた。
「その疑は一応|尤《もっとも》であるが切腹にはフランス人が立ち会う筈《はず》である。それが退席したから、中止せんではならぬ。只今薩摩、長門、因幡、備前、肥後、安芸七藩の家老方がフランス軍艦に出向かわれた。姑《しばら》く元の席に帰って吉左右《きっそう》を待たれい」
 九人は是非なく本堂に引き取った。細川、浅野両藩の士《さむらい》が夕食の膳を出して、食事をする気にはなられぬと云う人々に、強《し》いて箸《はし》を取らせ、次いで寝具を出して枕に就かせた。子の刻頃になって、両藩の士が来て、只今七藩の家老方がこれへ出席になると知らせた。九人は跳《は》ね起きて迎接した。七家老の中三人が膝を進めて、かわるがわる云うのを聞けば、概《おおむ》ねこうである。我々はフランス軍艦に往って退席の理由を質《ただ》した。然るにフランス公使は、土佐の人々が身命を軽んじて公に奉ぜられるには感服したが、何分その惨澹《さんたん》たる状況を目撃するに忍びないから、残る人々の助命の事を日本政府に申し立てると云った。明朝は伊達少将の手を経て朝旨《ちょうし》を伺うことになるだろう。いずれも軽挙|妄動《もうどう》することなく、何分の御沙汰を待たれいと云うのである。九人は謹んで承服した。
 中一日置いて二十五日に、両藩の士が来て、九人が大阪表へ引上げることになったこと、それから六番隊の橋詰、岡崎、川谷は安芸藩へ、八番隊の竹内、横田、土居、垣内、金田、武内は肥後藩へ預けられたことを伝えた。九挺の駕籠は寺の広庭に舁《か》き据えられた。一同駕籠に乗ろうとする時、橋詰が自ら舌を咬《か》み切って、口角から血を流して倒れた。同僚の潔く死んだ後に、自分の番になって故障の起ったのを遺憾だと思ったのである。幸に舌の創は生命を危くする程のものではなかったが、浅野家のものは再び変事の起らぬうちに、早く大阪まで引き上げようと思って、橋詰以下三人の乗った駕籠を、早追の如くに急がせた。細川家のものが声を掛けて、歩度を緩《ゆる》めさせようとしたが、浅野家のものは耳にも掛けない。とうとう細川家のものも駆足になった。
 大阪に着くと、九挺の駕籠が一旦長堀の土佐藩邸の前に停められた。小南が門前に出て、橋詰に説諭した。そこから両藩のものが引き分れて、各《おのおの》預けられた人達を連れて帰った。橋詰には医者が附けられ、又土佐藩から看護人が差し添えられた。

 九人のものは細川、浅野両家で非常に優待せられた。中にも細川家では、元禄年中に赤穂浪人を預り、万延元年に井伊掃部頭《いいかもんのかみ》を刺した水戸浪人を預り、今度で三度目の名誉ある御用を勤めるのだと云って、鄭重《ていちょう》の上にも鄭重にした。新調した縞《しま》の袷《あわせ》を寝衣《ねまき》として渡す。夜具は三枚布団で、足軽が敷畳をする。隔日に据風呂《すえふろ》が立つ。手拭と白紙とを渡す。三度の食事に必ず焼物付の料理が出て、隊長が毒見をする。午後に重詰の菓子で茶を出す。果物が折々出る。便用には徒士《かち》二三人が縁側に出張る。手水《ちょうず》の柄杓《ひしゃく》は徒士が取る。夜は不寝番《ねずばん》が附く。挨拶に来るものは縁板に頭を附ける。書物を貸して読ませる。病気の時は医者を出して、目前で調合し、目前で煎《せん》じさせる。凡そこう云う扱振である。
 三月二日に、死刑を免じて国元へ指返《さしかえ》すと云う達しがあった。三日に土佐藩の隊長が兵卒を連れて、細川、浅野両藩にいる九人のものを受取りに廻った。両藩共|七菜《しちさい》二《に》の膳附の饗応《きょうおう》をして別を惜んだ。十四日に、九人のものは下横目一人宰領二人を附けられて、木津川口から舟に乗り込み、十五日に、千本松を出帆し、十六日の夜なかに浦戸《うらど》の港に着いた。十七日に、南会所をさして行くに、松が鼻から西、帯屋町までの道筋は、堺事件の人達を見に出た群集で一ぱいになっている。南会所で、下横目が九人のものを支配方に引き渡し、支配方は受け取って各自の親族に預けた。九人のものはこの時一旦|遺書《ゆいしょ》遺髪《ゆいはつ》を送って遣《や》った父母妻子に、久し振の面会をした。
 五月二十日に、南会所から九人のものに呼出状が来た。本人は巳《み》の刻、実父又は実子のあるものは、その実父、実子も巳の刻半に出頭すべしと云うのである。南会所では目附の出座があって、下横目が三箇条の達しをした。扶持切米《ふちきりまい》召し放され、渡川限《わたりかわかぎり》西へ流罪《るざい》仰せ付けられる。袴刀《はかまかたな》のままにて罷《まか》り越して好いと云うのが一つ。実子あるものは実子を兵卒に召し抱え、二人扶持切米四石を下し置かれると云うのが二つ。実子のないものは配処に於いて介補《かいほ》として二人扶持を下し置かれ、幡多《はた》中村の蔵から渡し遣《つか》わされると云うのが三つである。九人のものは相談の上、橋詰を以て申し立てた。我々はフランス人の要求によって、国家の為めに死のうとしたものである。それゆえ切腹を許され、士分《さむらいぶん》の取扱を受けた。次いでフランス人が助命を申し出たので、死を宥《なだ》められた。然れば無罪にして士分の取扱をも受くべき筈である。それを何故に流刑に処せられるか、その理由を承らぬうちは、輒《たやす》くお請《うけ》が出来難いと云うのである。目附は当惑の体で云った。不審は最《もっとも》である。しかしこの度の流刑は自殺した十一人の苦痛に準ずる御処分であろう。枉《ま》げてお請をせられたいと云った。九人のものは苦笑して云った。十一人の死は、我々も日夜心苦しく存ずる所である。その苦痛に準ずると云われては、論弁すべき詞《ことば》がない。一同お請いたすと云った。
 九人のものは流人として先例のない袴着帯刀《はかまぎたいとう》の姿で出立したが、久しく蟄居《ちっきょ》して体《からだ》が疲れていたので、土佐郡朝倉村に着いてから、一同足痛を申し立てて駕籠に乗った。配所は幡多郡入田村《はたごおりにゅうたむら》である。庄屋|宇賀祐之進《うがすけのしん》の取計《とりはからい》で、初は九人を一人ずつ農家に分けて入れたが、数日の後一軒の空屋に八人を合宿させた。横田一人は西へ三里隔たった有岡村の法華宗真静寺の住職が、俗縁があるので引き取った。
 九人のものは妙国寺で死んだ同僚十一人のために、真静寺で法会《ほうえ》を行って、次の日から村民に文武の教育を施しはじめた。竹内は四書の素読《そどく》を授け、土居、武内は撃剣を教え、その他の人々も思い思いに諸芸の指南をした。
 入田村は夏から秋に掛けて時疫《じえき》の流行する土地である。八月になって川谷、横田、土居の三人が発熱した。土居の妻は香美郡夜須村《かがみごおりやすむら》から、昼夜兼行で看病に来た。横田の子常次郎は、母が病気なので、僅《わず》かに九歳の童子でありながら、単身三十里の道を歩いて来て、父を介抱した。この二人は次第に恢復《かいふく》に向ったのに、川谷一人は九月四日に二十六歳を一期《いちご》として病死した。
 十一月十七日に、目附方は橋詰以下九人のものに御用召を発した。生き残った八人は、川谷の墓に別を告げて入田村を出立し、二十七日に高知に着いた。即時に目附役場に出ると、各通の書面を以て、「御即位御祝式に被当《あたられ》、思召帰住御免《おぼしめしきじゅうごめん》之上、兵士|某《なにがし》父に被仰付《おおせつけられ》、以前之年数被継遣之《いぜんのねんすうこれをつぎつかわさる》」と云う申渡《もうしわたし》があった。これは八月二十七日にあった明治天皇の即位のために、八人のものが特赦《とくしゃ》を受けたので、兵士とは並の兵卒である。士分取扱の沙汰《さた》は終《つい》に無かった。

 妙国寺で死んだ十一人のためには、土佐藩で宝珠院に十一基の石碑を建てた。箕浦を頭《かしら》に柳瀬までの碑が一列に並んでいる。宝珠院本堂の背後の縁下には、九つの大瓶《おおがめ》が切石の上に伏せてある。これはその中に入るべくして入らなかった九人の遺物である。堺では十一基の石碑を「御残念様」と云い、九箇の瓶《かめ》を「生運様《いきうんさま》」と云って参詣《さんけい》するものが迹《あと》を絶たない。
 十一人のうち箕浦は男子がなかったので、一時家が断絶したが、明治三年三月八日に、同姓箕浦幸蔵の二男|楠吉《くすきち》に家名を立てさせ、三等|下席《かせき》に列し、七石三斗を給し、次で幸蔵の願に依て、猪之吉の娘を楠吉に配することになった。
 西村は父清左衛門が早く亡くなって、祖父|克平《かつへい》が生存していたので、家督を祖父に復せられた。後には親族|筧氏《かけいうじ》から養子が来た。
 小頭以下兵卒の子は、幼少でも大抵兵卒に抱えられて、成長した上で勤務した。



底本:「阿部一族・舞姫」新潮文庫、新潮社
   1968(昭和43)年4月20日発行
   1979(昭和54)年8月15日24刷
入力:j_sekikawa
校正:小林繁雄
2001年3月12日公開
2001年6月30日修正
青空文庫作成フ
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