動になろうも知れません。どうぞそれだけは御免下さりませ」
「いや、国家のために忠死する武士の記念じゃ。留めるな」
垣内と僧侶とは揉《も》み合っている。それを見て垣内の所へ、中間の二三人が駆け附けた。
「大切な事を目前に控えていながら、それは余り大人気ない。鐘を鳴らして人を驚かしてなんになる。好く考えて見給え」と云って留めた。
「そうか。つい興に乗じて無益の争をした。罷《や》める罷める」と垣内は云って、撞木から手を引いた。垣内を留めた中間の一人が懐《ふところ》を探って、
「ここに少し金がある、もはや用のない物じゃ、死んだ跡にお世話になるお前様方に献じましょう」と云って、僧侶に金をわたした。垣内と僧侶との争論を聞き付けて、次第に集って来た中間が、
「ここにもある」
「ここにも」と云いながら、持っていただけの金銭を出して、皆僧侶の前に置いた。中には、
「拙者は冥福《みょうふく》を願うのではないが」と、条件を附けて置くものもあった。僧侶は金を受けて鐘撞堂を下った。
人々は鐘撞堂を降りて、
「さあ、これから切腹の場所を拝見して置こうか」と、幔幕《まんまく》で囲んだ中へ這入り掛けた。細川藩の番士が、
「それはお越《こし》にならぬ方が宜しゅうございましょう」と云って留めた。
「いや、御心配御無用、決して御迷惑は掛けません」と言い放って、一同幕の中に這入った。
場所は本堂の前の広庭である。山内家の紋を染めた幕を引き廻した中に、四本の竹竿《たけざお》を竪《た》てて、上に苫《とま》が葺《ふ》いてある。地面には荒筵《あらむしろ》二枚の上に、新しい畳二枚を裏がえしに敷き、それを白木綿で覆《おお》い、更に毛氈《もうせん》一枚を襲《かさ》ねてある。傍に毛氈が畳んだままに積み上げてあるのは、一人々々取り替えるためであろう。入口の側に卓《つくえ》があって、大小が幾組も載せてある。近づいて見れば、長堀の邸《やしき》で取り上げられた大小である。
人々は切腹の場所を出て、序《ついで》に宝珠院《ほうじゅいん》の墓穴も見て置こうと、揃って出掛けた。ここには二列に穴が掘ってある。穴の前には高さ六尺余の大瓶《おおがめ》が並べてある。しかもそれには一々名が書いて貼《は》ってある。それを読んで行くうちに、横田が土居に言った。
「君と僕とは生前にも寝食を倶《とも》にしていたが、見れば瓶《かめ》も並べてある。死
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