か一筆願いたいといった。
 元六番歩兵隊長箕浦猪之吉は、源姓《みなもとせい》、名は元章《げんしょう》、仙山《せんざん》と号している。土佐国土佐郡|潮江《うしおえ》村に住んで五人扶持、十五石を受ける扈従格《こじゅうかく》の家に、弘化元年十一月十一日に生れた。当年二十五歳である。祖父忠平、父を万次郎と云う。母は依田氏、名は梅である。安政四年に江戸に遊学し、万延元年には江戸で容堂侯の侍読になり、同じ年に帰国して文館の助教に任ぜられた。次いで容堂侯の扈従を勤めて、七八年経過し、馬廻格《うままわりかく》に進んだ。それが藩の歩兵小隊司令を命ぜられたのは、慶応三年十一月で、僅《わず》か三箇月勤めているうちに、堺の事件が起った。そういう履歴の人だから、箕浦は詩歌の嗜《たしみ》もあり、書は草書を立派に書いた。
 文房具を前に置かれた時、箕浦は、
「甚だ見苦しゅうはございまするが」と挨拶して、腹稾《ふっこう》[#底本では「稾」の「禾」の部分が「木」、昭和60年5月20日36刷改版から「稾」をそのまま使用しているため、このまま「稾」を採用]の七絶を書いた。
「除却妖氛答国恩《ようふんをじょきゃくしこくおんにこたう》。決然豈可省人言《けつぜんあにじんげんをせいすべけんや》。唯教大義伝千載《ただたいぎをしてせんざいにつたえしむ》。一死元来不足論《いっしがんらいろんずるにたらず》」攘夷はまだこの男の本領であったのである。
 二十人が暫《しばら》く待っていると、細川藩士がまだなかなか時刻が来そうにないと云った。そこで寺内を見物しようと云うことになった。庭へ出て見ると、寺の内外は非常な雑沓《ざっとう》である。堺の市中は勿論、大阪、住吉、河内在等から見物人が入り込んで、いかに制しても立ち去らない。鐘撞堂《かねつきどう》には寺の僧侶が数人登って、この群集を見ている。八番隊の垣内がそれに目を着けて、つと堂の上に登って、僧侶に言った。
「坊様達、少し退《の》いて下されい。拙者は今日切腹して相果てる一人じゃ。我々の中間《なかま》には辞世の詩歌などを作るものもあるが、さような巧者な事は拙者には出来ぬ。就いてはこの世の暇乞に、その大鐘を撞いて見たい。どりゃ」と云いさま腕まくりをして撞木《しゅもく》を掴んだ。僧侶は驚いて左右から取り縋《すが》った。
「まあまあ、お待ち下さりませ。この混雑の中で鐘が鳴ってはどんな騒
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