いちゃんと呼ばれていた。芸者屋の湊屋と号するも、吉原の湊屋の号より取ったものであった。明治四年二月の頃、この家の抱えは貫六、万吉、留八の三人であった。この河野は香以の息だと聞いた。」この話は正確を保し難い。かつ未だ芥川氏にも尋ねて見ない。しかし河野が果して香以の息であったならば、即慶三郎のなれの果ではなかろうか。
香以の交遊諸人に関しても、わたくしは二三の報を得た。尾道の古怪庵加藤氏は云う。「香以伝に香以の友晋永機を出し、その没年を明治三十七年としたのは誤であろう。今の機一君の父も永機、祖父も永機であった。香以の友は祖父の方であろう。そして明治三十七年に没したと云うは父の方であろう。」わたくしは其角堂の世系を詳にせぬから、あるいは此《かく》の如き誤をなしたかも知れない。そこで浅草の文淵堂主人に問い合せた。文淵堂の答書はこうである。「香以の友であった永機はまた九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎とも交が深かった。団十郎の筆蹟は永機そっくりであった。この永機は明治初年の頃に向島の三囲《みめぐり》社内の其角堂に住み、後《のち》芝円山辺に家を移して没した。没した日は明治三十七年一月十日で、行年
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