衛は卑吝《ひりん》では無かった。某年に芝泉岳寺で赤穂四十七士の年忌が営まれた時、棉服の老人が墓に詣《もう》でて、納所《なつしょ》に金百両を寄附し、氏名を告げずして去った。寺僧が怪んで人に尾行させると、老人は山城河岸摂津国屋の暖簾の中に入った。

       二

 竜池は家を継いでから酒店《さかみせ》を閉じて、二三の諸侯の用達《ようたし》を専業とした。これは祖先以来の出入先で、本郷五丁目の加賀中将家、桜田堀通の上杉侍従家、桜田|霞《かすみ》が関《せき》の松平少将家の三家がその主《おも》なるものであった。加賀の前田は金沢、上杉は米沢、浅野松平は広島の城主である。
 文政の初年には竜池が家に、父母伊兵衛夫婦が存命していて、そこへ子婦《よめ》某氏が来ていた。竜池は金兵衛以下数人の手代《てだい》を諸家へ用聞に遣《や》り、三日式日《さんじつしきじつ》には自身も邸々《やしきやしき》を挨拶《あいさつ》に廻った。加賀家は肥前守斉広卿《ひぜんのかみなりのりきょう》の代が斉泰卿《なりやすきょう》の代に改まる直前である。上杉家は弾正大弼斉定《だんじょうのたいひつなりさだ》、浅野家は安芸守斉賢《あきのかみな
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