新橋山城町の酒屋の主人であった。その居る処から山城|河岸《がし》の檀那《だんな》と呼ばれ、また単に河岸の檀那とも呼ばれた。姓は源、氏《うじ》は細木、定紋は柊《ひいらぎ》であるが、店の暖簾《のれん》には一文字の下に三角の鱗形《うろこがた》を染めさせるので、一鱗堂《いちりんどう》と号し、書を作るときは竜池《りゅうち》と署し、俳句を吟じては仙塢《せんう》と云い、狂歌を詠じては桃江園《とうこうえん》また鶴《つる》の門雛亀《とひなかめ》、後に源僊《みなもとのやまひと》と云った。
竜池は父を伊兵衛《いへえ》と云った。伊兵衛は竜池が祖父の番頭であったのを、祖父が人物を見込んで養子にした。摂津国屋の店を蔵造《くらづくり》にしたのはこの伊兵衛である。奥蔵を建て増し、地所を買い添えて、山城河岸を代表する富家にしたのはこの伊兵衛である。
伊兵衛は七十歳近くなって、竜池に店を譲って隠居し、山城河岸の家の奥二階に住んでいた。隠居した後も、道を行きつつ古草鞋《ふるわらじ》を拾って帰り、水に洗い日に曝《さら》して自ら※[#「坐+りっとう」、第3水準1−14−62]《きざ》み、出入の左官に与えなどした。しかし伊兵
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