三年三月の頃から五|分月題《ぶさかやき》の子之助は丁稚《でっち》兼吉を連れて、鳥羽屋を出《い》で、手習の師匠松本、狂歌の宗匠梅屋鶴寿等を訪《と》うことになったが、その帰途には兼吉を先に還らせて、自分は劇場妓楼に立ち寄った。兼吉は綽号《あだな》を鳥羽絵小僧と云った。想うに鳥羽屋の小僧で、容貌《ようぼう》が奇怪であったからの名であろう。即ち後の仮名垣魯文《かながきろぶん》である。
 劇場は木挽町《こびきちょう》の河原崎座であった。贔屓《ひいき》の俳優は八代目団十郎である。作者|勝諺蔵《かつげんぞう》をば部屋に訪うて交《まじわり》を結んだ。諺蔵は後の河竹新七である。
 妓楼は主に品川の島崎|湊屋《みなとや》、土蔵相摸《どぞうさがみ》で、引手茶屋は大野屋万治方であった。湊屋のお染は尤《もっと》も久しい馴染であった。
 取巻は河原崎座の作者岩井紫玉、同座附茶屋の主人武田屋馬平、品川の幇間《ほうかん》富本|登名太夫《となたゆう》、同《おなじく》熨斗太夫《のしたゆう》、桜川善二坊、その他俳諧師|牧乙芽《まきおつが》、力士|勢藤吾《いきおいとうご》等であった。紫玉は後の正伝節家元春富士、乙芽は後の冬映
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