へ出入していたものは、桜川善孝、荻江《おぎえ》千代作、都千国、菅野《すがの》のん子等である。千国は初の名が荻江露助、後に千中と云う。玄冶店《げんやだな》に住んでいた。また吉原に往った時に呼ばれたものは都|有中《うちゅう》、同《おなじく》権平、同米八、清元千蔵、同仲助、桜川寿六、花柳鳴助等である。中にも有中は香以がその頓才《とんさい》を称して、常に傍《かたわら》に侍せしめた。
 吉原の女芸者は見番大黒屋庄六方から、きわ、ぎん、春、鶴《つる》等が招かれた。きわは後花柳寿輔の妻になった。春は当時既に都権平の妻になっていた。駿河屋の鶴は間もなく香以の囲物《かこいもの》にせられた。
 香以は暫く吉原に通っているうちに、玉屋の濃紫を根引した。その時濃紫が書いたのだと云って「紫の初元結に結込めし契は千代のかためなりけり」と云う短冊が玉屋に残っていた。本妻は濃紫との折合が悪いと云って木場へ還された。濃紫は女房くみとなり、次でふさと改めた。これは仲の町の引手茶屋駿河屋とくの抱《かかえ》鶴が引かせられたより前の事である。
 家にいての香以の生活は余り贅沢《ぜいたく》ではなかった。料理は不断|南鍋町《みなみなべちょう》の伊勢勘から取った。蒲焼《かばやき》が好で、尾張屋、喜多川が常に出入した。特に人に馳走《ちそう》をする時などは、大抵数寄屋町の島村半七方へ往った。香以を得意の檀那としていた駕籠屋《かごや》は銀座の横町にある方角と云う家で、郵便のない当時の文使《ふみづかい》に毎日二人ずつの輿丁《よてい》が摂津国屋に詰めていた。
 濃紫が家に来た後も、香以の吉原通は息《や》まなかった。遊に慣れたものは燈燭《とうしょく》を列《つら》ねた筵席《えんせき》の趣味を忘るることを得ない。次の相手は同じ玉屋の若紫であった。
 ある日香以は松本交山を深川富が岡|八幡宮《はちまんぐう》の境内に訪うて、交山が松竹を一双の金屏風《きんびょうぶ》に画いたのを見た。これは某《それがし》が江戸町一丁目和泉屋平左衛門の抱泉州に贈らむがために画かせたものであった。
 香以はこの屏風を横奪して、交山には竹川町点心堂の餡《あん》に、銀二十五両を切餅《きりもち》として添えて遺《おく》った。当時二十五両包を切餅と称したからである。交山は下戸であった。
 香以は屏風巻上始末を書いて悪摺《あくずり》に摺《す》らせ、知友の間に頒《わか》
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