最後の一句
森鴎外

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)元文《げんぶん》三年

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)船乗り業|桂屋太郎兵衛《かつらやたろべえ》
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 元文《げんぶん》三年十一月二十三日の事である。大阪《おおさか》で、船乗り業|桂屋太郎兵衛《かつらやたろべえ》というものを、木津川口《きづがわぐち》で三日間さらした上、斬罪《ざんざい》に処すると、高札《こうさつ》に書いて立てられた。市中至る所太郎兵衛のうわさばかりしている中に、それを最も痛切に感ぜなくてはならぬ太郎兵衛の家族は、南組《みなみぐみ》堀江橋際《ほりえばしぎわ》の家で、もう丸二年ほど、ほとんど全く世間との交通を絶って暮らしているのである。
 この予期すべき出来事を、桂屋へ知らせに来たのは、ほど遠からぬ平野町《ひらのまち》に住んでいる太郎兵衛が女房の母であった。この白髪頭《しらがあたま》の媼《おうな》の事を桂屋では平野町のおばあ様と言っている。おばあ様とは、桂屋にいる五人の子供がいつもいい物をおみやげに持って来てくれる祖母に名づけた名で、それを主人も呼び、女房も呼ぶようになったのである。
 おばあ様を慕って、おばあ様にあまえ、おばあ様にねだる孫が、桂屋に五人いる。その四人は、おばあ様が十七になった娘を桂屋へよめによこしてから、ことし十六年目になるまでの間に生まれたのである。長女いちが十六歳、二女まつが十四歳になる。その次に太郎兵衛が娘をよめに出す覚悟で、平野町の女房の里方《さとかた》から、赤子《あかご》のうちにもらい受けた、長太郎《ちょうたろう》という十二歳の男子がある。その次にまた生まれた太郎兵衛の娘は、とくと言って八歳になる。最後に太郎兵衛の始めて設けた男子の初五郎《はつごろう》がいて、これが六歳になる。
 平野町の里方は有福《ゆうふく》なので、おばあ様のおみやげはいつも孫たちに満足を与えていた。それが一昨年太郎兵衛の入牢《にゅうろう》してからは、とかく孫たちに失望を起こさせるようになった。おばあ様が暮らし向きの用に立つ物をおもに持って来るので、おもちゃやお菓子は少なくなったからである。
 しかしこれから生《お》い立ってゆく子供の元気は盛んなもので、ただおばあ様のおみやげが乏しくなったばかりでなく、おっか様のふきげんになったのにも、ほどなく慣れて、
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