た。書院の人々は覚えず、それを見てほほえんだ。
この時佐佐が書院の敷居ぎわまで進み出て、「いち」と呼んだ。
「はい。」
「お前の申し立てにはうそはあるまいな。もし少しでも申した事に間違いがあって、人に教えられたり、相談をしたりしたのなら、今すぐに申せ。隠して申さぬと、そこに並べてある道具で、誠の事を申すまで責めさせるぞ。」佐佐は責め道具のある方角を指さした。
いちはさされた方角を一目見て、少しもたゆたわずに、「いえ、申した事に間違いはございません」と言い放った。その目は冷ややかで、そのことばは徐《しず》かであった。
「そんなら今一つお前に聞くが、身代わりをお聞き届けになると、お前たちはすぐに殺されるぞよ。父の顔を見ることはできぬが、それでもいいか。」
「よろしゅうございます」と、同じような、冷ややかな調子で答えたが、少し間《ま》を置いて、何か心に浮かんだらしく、「お上《かみ》の事には間違いはございますまいから」と言い足した。
佐佐の顔には、不意打ちに会ったような、驚愕《きょうがく》の色が見えたが、それはすぐに消えて、険しくなった目が、いちの面《おもて》に注がれた。憎悪《ぞうお》を帯びた驚異の目とでも言おうか。しかし佐佐は何も言わなかった。
次いで佐佐は何やら取調役《とりしらべやく》にささやいたが、まもなく取調役が町年寄《まちどしより》に、「御用が済んだから、引き取れ」と言い渡した。
白州《しらす》を下がる子供らを見送って佐佐は太田と稲垣とに向いて、「生先《おいさき》の恐ろしいものでござりますな」と言った。心の中には、哀れな孝行娘の影も残らず、人に教唆《きょうさ》せられた、おろかな子供の影も残らず、ただ氷のように冷ややかに、刃《やいば》のように鋭い、いちの最後のことばの最後の一句が反響しているのである。元文ごろの徳川家の役人は、もとより「マルチリウム」という洋語も知らず、また当時の辞書には献身という訳語もなかったので、人間の精神に、老若男女《ろうにゃくなんにょ》の別なく、罪人太郎兵衛の娘に現われたような作用があることを、知らなかったのは無理もない。しかし献身のうちに潜む反抗の鋒《ほこさき》は、いちとことばを交えた佐佐のみではなく、書院にいた役人一同の胸をも刺した。
――――――――――――――――
城代《じょうだい》も両奉行もいちを「変な小
前へ
次へ
全11ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング