り行方《ゆくえ》が知れなくなった。源太夫が家内の者の話に、甚五郎はふだん小判百両を入れた胴巻《どうまき》を肌《はだ》に着けていたそうである。
天正十一年に浜松を立ち退《の》いた甚五郎が、はたして慶長十二年に朝鮮から喬僉知《きょうせんち》と名のって来たか。それともそう見えたのは家康の僻目《ひがめ》であったか。確かな事は誰にもわからなんだ。佐橋家のものは人に問われても、いっこう知らぬと言い張った。しかし佐橋家で、根が人形のように育った人参《にんじん》の上品《じょうひん》を、非常に多く貯えていることが後に知れて、あれはどうして手に入れたものか、といぶかしがるものがあった。
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この話は「続武家閑話《ぞくぶけかんわ》」に拠《よ》ったものである。佐橋家の家譜《かふ》等では、甚五郎ははやく永禄《えいろく》六年一向宗徒に与《くみ》して討死している。「甲子夜話《かっしやわ》」には、慶長《けいちょう》十二年の朝鮮の使にまじっていた徳川家の旧臣を、筧又蔵《かけいまたぞう》だとしてある。林春斎の「韓使来聘記《かんしらいへいき》」等には、家康に謁《えっ》した上々官を金《きん》、朴《ぼ
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