残った。信康を始めとして、一同覚えず声をあげてほめた。田舟《たぶね》を借りて鷺を取りに行く足軽をあとに残して、一同は館《やかた》へ帰った。
 翌日の朝思いがけぬ出来事が城内の人々を驚《おどろ》かした。それは小姓蜂谷が、体じゅうに疵《きず》もないのに死んでいて、甚五郎は行方《ゆくえ》がしれなくなったのである。小姓一人は鷺を撃ったあとで、お供をして帰る時、甚五郎が蜂谷に「約束の事はあとで談合するぞ」と言うのを聞いた。死んだ蜂谷の身のまわりを調べた役人は、かねて見知っている蜂谷の金熨斗《きんのし》付きの大小の代りに、甚五郎の物らしい大小の置いてあるのに気がついた。そのほかにはこの奇怪《きかい》な出来事を判断する種になりそうな事は格別ない。ただ小姓たちの言うのを聞けば、蜂谷は今度紛失した大小を平生由緒《へいぜいゆいしょ》のある品だと言って、大切にしていたそうである。またその大小を甚五郎がふだんほめていたそうである。
 甚五郎の行方は久しく知れずにて、とうとう蜂谷の一週忌《いっしゅうき》も過ぎた。ある日甚五郎の従兄《じゅうけい》佐橋|源太夫《げんだゆう》が浜松の館《やかた》に出頭して嘆願《たんがん》した。それは遠くもない田舎《いなか》に、甚五郎が隠《かく》れているのが知れたので、助命を願いに出たのである。源太夫はこういう話をした。甚五郎は鷺《さぎ》を撃つとき蜂谷と賭《かけ》をした。蜂谷は身につけているものを何なりとも賭けようと言った。甚五郎は運よく鷺を撃《う》ったので、ふだん望みをかけていた蜂谷の大小をもらおうと言った。それもただもらうのではない。代りに自分の大小をやろうというのである。しかし蜂谷は、この金熨斗《きんのし》付きの大小は蜂谷家で由緒《ゆいしょ》のある品だからやらぬと言った。甚五郎はきかなんだ。「武士は誓言《せいごん》をしたからは、一命をもすてる。よしや由緒があろうとも、おぬしの身に着けている物の中で、わしが望むのは大小ばかりじゃ。ぜひくれい」と言った。「いや、そうはならぬ。命ならいかにも棄《す》ちょう。家の重宝は命にも換《か》えられぬ」と蜂谷は言った。「誓言を反古《ほご》にする犬侍《いぬざむらい》め」と甚五郎がののしると、蜂谷は怒って刀を抜《ぬ》こうとした。甚五郎は当身《あてみ》を食わせた。それきり蜂谷は息を吹《ふ》き返さなかった。平生何事か言い出すとあとへ引かぬ甚五郎は、とうとう蜂谷の大小を取って、自分の大小を代りに残して立ち退いたというのである。源太夫は家康にこの話をして、何を言うにも年若の甚五郎であるから、上《かみ》の思召《おぼしめ》しで助命していただければよし、もしかなわぬ事なら、人手にかけず打ち果たしてお詫《わ》びをしたいと言った。
 家康はこれを聞いて、しばらく考えて言った。「そちが話を聞けば、甚五郎の申し分や所行《しょぎょう》も一応道理らしく聞こえるが、所詮《しょせん》は間違《まちご》うておるぞよ。しかしそちも言うとおり、弱年の者じゃから、何かひとかどの奉公《ほうこう》をいたしたら、それをしおに助命いたしてつかわそう」
「はっ」と言って源太夫はしばらく畳《たたみ》に顔を押《お》し当てていた。ややあって涙《なみだ》ぐんだ目をあげて家康を見て、「甚五郎めにいたさせまする御奉公は」と問うた。
「甚五郎は怜悧《れいり》な若者で、武芸にも長《た》けているそうな。手に合うなら、甘利《あまり》を討たせい」こう言い放ったまま、家康は座を起《た》った。

 望月《もちづき》の夜《よ》である。甲斐《かい》の武田勝頼《たけだかつより》が甘利|四郎三郎《しろさぶろう》を城番《じょうばん》に籠《こ》めた遠江国榛原郡小山《とおとうみのくにはいばらごおりこやま》の城で、月見の宴《えん》が催《もよお》されている。大兵肥満《たいひょうひまん》の甘利は大盃《たいはい》を続けざまに干して、若侍《わかざむらい》どもにさまざまの芸をさせている。
「三河の水の勢いも
小山が堰《せ》けばつい折れる。
凄《すさま》じいのは音ばかり」
こんな歌を歌って一座はどよめく。そのうち夜がふけたので、甘利は大勢に暇《いとま》をやって、あとには新参の若衆《わかしゅ》一人を留めておいた。
「ああ。騒《さわ》がしい奴《やつ》らであったぞ。月のおもしろさはこれからじゃ。また笛《ふえ》でも吹《ふ》いて聞かせい」こう言って、甘利は若衆の膝《ひざ》を枕《まくら》にして横になった。
 若衆は笛を吹く。いつも不意に所望《しょもう》せられるので、身を放さずに持っている笛である。夜はしだいにふけて行く。燃え下がった蝋燭《ろうそく》の長く延びた心《しん》が、上の端《はし》は白くなり、その下は朱色《しゅいろ》になって、氷柱《つらら》のように垂れた蝋が下にはうずたかく盛《も》り上がっている。澄《
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