す》み切った月が、暗く濁《にご》った燭《しょく》の火に打ち勝って、座敷《ざしき》はいちめんに青みがかった光りを浴びている。どこか近くで鳴く蟋蟀《こおろぎ》の声が、笛の音《ね》にまじって聞こえる。甘利は瞼《まぶた》が重くなった。
 たちまち笛の音がとぎれた。「申《もう》し。お寒うはござりませぬか」笛を置いた若衆の左の手が、仰向《あおむ》けになっている甘利の左の胸を軽く押《おさ》えた。ちょうど浅葱色《あさぎいろ》の袷《あわせ》に紋《もん》の染め抜《ぬ》いてある辺である。
 甘利は夢現《ゆめうつつ》の境《さかい》に、くつろいだ襟《えり》を直してくれるのだなと思った。それと同時に氷のように冷たい物が、たった今平手がさわったと思うところから、胸の底深く染み込《こ》んだ。何とも知れぬ温い物が逆に胸から咽《のど》へのぼった。甘利は気が遠くなった。

 三河勢《みかわぜい》の手に余った甘利をたやすく討ち果たして、髻《もとどり》をしるしに切り取った甚五郎は、※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2−94−68]鼠《むささび》のように身軽に、小山城を脱《ぬ》けて出て、従兄源太夫が浜松の邸《やしき》に帰った。家康は約束《やくそく》どおり甚五郎を召《め》し出したが、目見えの時一言も甘利の事を言わなんだ。蜂谷の一族は甚五郎の帰参を快くは思わぬが、大殿《おおとの》の思召《おぼしめ》しをかれこれ言うことはできなかった。
 甘利は死んでも小山の城はまだ落ちずにいた。そのうち世間には種々の事があった。先に武田信玄《たけだしんげん》が死んでから七年目に、上杉謙信《うえすぎけんしん》が死んだ。三十六|歳《さい》で右近衛権少将《うこんえごんしょうしょう》にせられた家康の一門はますます栄えて、嫡子《ちゃくし》二郎三郎信康が二十一歳になり、二男|於義丸《おぎまる》(秀康《ひでやす》)が五歳になった時、世にいう築山殿《つきやまどの》事件が起こって、信康はむざんにも信長の嫌疑《けんぎ》のために生害《しょうがい》した。後に将軍職を承《う》け継いだ三男|長丸《おさまる》(秀忠《ひでただ》)はちょうどこの年に生まれ、四男|福松丸《ふくまつまる》(忠吉《ただよし》)はその翌年に生まれた。それから中一年置いて、家康が多年目の上の瘤《こぶ》のように思った小山の城が落ちたが、それはもう勝頼の滅《ほろ》びる悲壮劇《ひそうげき》の序幕であった。
 武田の滅《ほろ》びた天正十年ほど、徳川家の運命の秤《はかり》が乱高下《らんこうげ》した年はあるまい。明智光秀《あけちみつひで》が不意に起って信長を討ち取る。羽柴秀吉《はしばひでよし》が毛利《もうり》家と和睦《わぼく》して弔合戦《とむらいがっせん》に取って返す。旅中の家康は茶屋四郎次郎《ちゃやしろじろう》の金と本多平八郎《ほんだへいはちろう》の鑓《やり》との力をかりて、わずかに免れて岡崎《おかざき》へ帰った。さて軍勢を催促《さいそく》して鳴海《なるみ》まで出ると、秀吉の使が来て、光秀の死を告げた。
 家康が武田の旧臣を身方に招き寄せている最中に、小田原《おだわら》の北条新九郎氏直《ほうじょうしんうろううじなお》が甲斐《かい》の一揆《いっき》をかたらって攻めて来た。家康は古府《こふ》まで出張って、八千足らずの勢《せい》をもって北条《ほうじょう》の五万の兵と対陣《たいじん》した。この時佐橋甚五郎は若武者仲間《わかむしゃなかま》の水野藤十郎勝成《みずのとうじゅうろうかつなり》といっしょに若御子《わかみこ》で働いて手を負った。年の暮《く》れに軍功のあった侍《さむらい》に加増があって、甚五郎もその数に漏《も》れなんだが、藤十郎と甚五郎との二人には賞美のことばがなかった。
 天正十一年になって、遠からず小田原《おだわら》へ二女|督姫君《とくひめぎみ》の輿入《こしい》れがあるために、浜松の館《やかた》の忙《いそ》がしい中で、大阪に遷《うつ》った羽柴家へ祝いの使が行くことになった。近習の甚五郎がお居間の次で聞いていると、石川与七郎数正《いしかわよしちろうかずまさ》が御前に出て、大阪への使を承っている。
「誰《たれ》か心の利《き》いた若い者を連れてまいれ」と家康が言う。
「さようなら佐橋でも」と石川が言う。
 やや久しい間家康の声が聞こえない。甚五郎はどうした事かと思っていると、やっと家康の声がする。「あれは手放しては使いとうない。この頃《ごろ》身方についた甲州方《こうしゅうがた》の者に聞けば、甘利はあれをわが子のように可哀《かわい》がっておったげな。それにむごい奴《やつ》が寝首を掻《か》きおった」
 甚五郎はこのことばを聞いて、ふんと鼻から息をもらして軽くうなずいた。そしてつと座を起って退出したが、かねて同居していた源太夫の邸《やしき》へも立ち寄らずに、それき
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