−89−70]《さを》で行《や》る舟がかいてある。
徳川時代には京都の罪人が遠島を言ひ渡されると、高瀬舟で大阪へ廻されたさうである。それを護送して行く京都町奉行附の同心が悲しい話ばかり聞せられる。或るとき此舟に載せられた兄弟殺しの科を犯した男が、少しも悲しがつてゐなかつた。其仔細を尋ねると、これまで食を得ることに困つてゐたのに、遠島を言ひ渡された時、銅錢二百文を貰つたが、錢を使はずに持つてゐるのは始だと答へた。また人殺しの科はどうして犯したかと問へば、兄弟は西陣に傭はれて、空引と云ふことをしてゐたが、給料が少くて暮しが立ち兼ねた、其内同胞が自殺を謀つたが、死に切れなかつた、そこで同胞が所詮助からぬから殺してくれと頼むので、殺して遣つたと云つた。
此話は翁草《おきなぐさ》に出てゐる。池邊|義象《よしかた》さんの校訂した活字本で一ペエジ餘に書いてある。私はこれを讀んで、其中に二つの大きい問題が含まれてゐると思つた。一つは財産と云ふものの觀念である。錢を持つたことのない人の錢を持つた喜は、錢の多少には關せない。人の欲には限がないから、錢を持つて見ると、いくらあればよいといふ限界は見出され
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