上の尋問を受けた。
此間に黒田監物が呼び入れられた。これは足輕増員の事を問はれた。
次に内藏允が呼び入れられた。これは召されぬのに推參したものゆゑ、公儀の役からは詞が掛からぬ。内藏允は役人の方に禮をした後、利章にも常のやうに會釋《ゑしやく》をして、さてかう云ふ陳述をした。右衞門佐には逆意は無い。なぜ此訴を利章が起したか不審である。利章が生れた時に先代の主人筑前守長政は守、脇差《わきざし》、産衣《うぶぎ》、樽肴《たるざかな》を父利安に贈られた。自分はそれを持つて栗山家へ往つたが、其時利章の父利安は跣足《はだし》で門まで送つて出て、禮を言つた。利章も成長してから、筑前守には不便《ふびん》を加へられてゐる。それがどうして此訴を起したかと云つて、内藏允は涙を零《こぼ》した。それから萬一右衞門佐に逆意があるなら、それを之房の道柏が知らぬ筈はないと云つて座を起ち、次にゐた道柏を連れて役人の前に來た。
道柏は一座へ禮をした後、つと利章の面前に進んで、そこに蹲《うづくま》つた。そして「道柏がすわるのぢや、少し下がつて貰はう」と聲を掛けた。利章は「おすわりなされい」と云つて動かずにゐた。道柏は重ねて「もう右衞門佐殿が御出座にならう、少し下がらぬか」と云つた。此時利章は一間ばかり下がつた。道柏は利章より上に著座した。
道柏も内藏允と同じ事で、けふ召されたものではない。併し利勝は面識があるので詞《ことば》を懸けた。續いて直孝が、「淡路が父ぢやな」と云つた。道柏は「さやうにござります」と答へた。直孝は道柏の嫡子を識つてゐたのである。
道柏は利章に、「己はお主が父卜庵の友ぢやが、卜庵は生涯|虚言《うそ》は言はなんだ、お主は父に生れ劣つたぞ」と云つた。利章は「貴殿は近頃の事を御存じないから分からぬ」と云つた。
次に道柏は役人の方に向いて述べた。天下は武を以て取り、文を以て守るものである。右衞門佐が叛逆を企てるなら、場數のある侍に相談せずには置くまい。黒田家では先づ一成などが老功である。内藏允、監物も二三度は場を踏んでゐる。自分も少々覺がある。相談すべき家來は先づ此二三人で、利章は軍《いくさ》らしい軍をせぬものである。右衞門佐の企を利章ばかりが知つてゐて、我々が知らぬと云ふのは、其企の無い證據である。右衞門佐若年のために政事向不行屆とあつて、領國を召し上げられるなら、力に及ばぬ。無實の罪だけは霽《はら》して進ぜたい。關が原陣で神君は先代の主人筑前守長政の手を取つて、其方の働で本意を遂げた、黒田家へは末代まで不沙汰はせぬと云はれた。此席にをられる土井殿、井伊殿、酒井殿も御承知であらうと云ふのである。
一成、内藏允は道柏の申立に同意を表した。これで道柏、一成、内藏允は暇《いとま》を賜つた。利章は、政虎が指圖して引き取らせた。
これから二三日立つて、忠之は老中に西の丸へ呼ばれて宣告を受けた。不調法の廉《かど》があつて筑前國を召し上げられる。去りながら祖父以來の戰功と本人の實意とを認められて、新《あらた》に筑前國拜領を仰附けられると云ふのである。其晩に直次から書状を以て平常の通心得られたいと云つて來た。忠之は夜中に麻布邸《あざぶてい》に入つた。
三月初に利章は直孝の邸へ呼ばれた。立會には利勝が來る。忠世以下は土井邸の時と同じである。利章は丸腰で著席した。さて采女正を以て申し渡された。諫書中にある政事向の件々其外は大抵相違ない。併し右衞門佐逆意云々は僞《いつはり》に極《きま》つた。此上はかやうな申立をしたわけを明白に申せと云ふ事である。利章は答へた。諫書其外の申立を正當と御認めになつたのは難有《ありがた》い爲合《しあは》せである。右衞門佐に逆意があると申し立てたのは、右衞門佐の自分に對する私の成敗を留めるためであつた。若しあの儘に領國で成敗せられたら、自分の犬死は惜むに足らぬが、右衞門佐は御取調を受けずに領國を召し上げられたであらう。此取計は憚ながら武略の一端かと存ずると云ふのである。役人席には感動の色が見えた。
二三日立つて、利章は再び直孝の邸へ呼ばれた。立會の人人は前度と同じで、それに南部山城守重直が加はつてゐた。松平忠弘を以て利章にかう申し渡された。此度右衞門佐は不調法の廉を以て、一旦筑前國を召し上げられ、更に先祖の功績と本人の實意とを思召されて、新に筑前國拜領を仰附けられた。其方は南部山城守へ御預けなされると云ふのである。利章は「はつ」と云つて、疊三枚程する/\と下がり兩眼に涙を浮べて「難有き爲合せに存じ奉ります」と云つた。重直が席を進めて、貴殿は公儀から百五十石の扶持《ふち》を受け、盛岡へ下向《げかう》の上は二三里の間を限り、自由に歩行せしめられると告げた。利章は重ねて禮を言つた。
同じ頃に麻布邸へ正虎、直次が來て、道柏、一成、内藏允、監物、十太夫に面會し、正虎が「此度は右衞門佐殿|公事《くじ》御勝利になられて、祝著に存ずる、去りながら萬一右衞門佐殿配所へ遣《つかは》される事になつたのであつたら、面々《めん/\》はなんとなされたのであつたか、しかと承つて置きたい」と云つた。道柏が暫く思案して進み出た。「若しさやうに御極《おきめ》なされたら、家老一同|遁世《とんせい》仕つたでござりませう」と云つた。正虎が「一同それに相違はないか」と云つた。一成等は「相違ございませぬ」と云つた。正虎は「實に殊勝な心得と存ずる、黒田家には好い家老を持つてをられる」と云つて座を立つた。これは福岡で籠城《らうじやう》の用意をしたのが物議の種にならぬやうに、家老等の言質を取つたのである。
又二三日立つてから、安藤家へ十太夫が呼ばれた。直次は正虎を立ち會はせて、十太夫に剃髮《ていはつ》して高野山に登ることを勸めた。十太夫は恐れ入つて領承した。
五月八日に忠之は家光に謁見した。それで徳川家と黒田家との交際は元に復した。忠之は五年の後、寛永十五年の島原役に功を樹《た》て、中二年置いて十八年に長崎番を命ぜられた。此時から從來平戸に來たオランダ舟が長崎に來ることになつたのである。
是より先、寛永十四年に島原の亂が起つた時、十太夫は高野山を拔け出て耶蘇《やそ》教徒の群に加つたが、原城の落ちた時亂軍の中で討たれた。
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利章が陸奧國巖手《むつのくにいはて》郡盛岡の城下に遷つたのは、寛永十一年三月の末であつた。南部家では廣小路に立派な邸を設けてこれを迎へた。
二年前の六月十四日は利章がため恐るべき日であつた。利章は福岡の邸から女房と二男吉次とを主家へ人質に出し、竹中采女正に宛てた訴状を二通書いて、一通は物馴れたものに持たせて、間道を日田へ遣り、今一通はわざと人に怪まれるやうな風體の百姓に持たせて、市中でそれを巡檢の役人に捕へさせた。利章は此最後の手段を取る前に、手分をして城下の邸をも左右良《まてら》の別邸をも取り片附け、大切な品はそれ/″\處分した。中には徳川家康が長政に與へた、慶長五年九月十九日附の書附がある。「今天下平均|之《の》儀、誠《まことに》御忠節|故《ゆゑ》と存候云云《ぞんじそろうんぬん》、御子孫永く疎略之儀|有之間敷候《これあるまじくそろ》[#「|有之間敷候《これあるまじくそろ》」は底本では「有|之間敷候《これあるまじくそろ》」]と云ふ文句のある一札である。利章はこれを梶原平十郎景尚に渡して云つた。此度《このたび》右衞門佐も自分も江戸に召されるからは、黒田家の浮沈に及ぶ事がないには限らぬ、さやうの場合には此書附を持つて江戸に出て、土井、井伊、酒井三閣老の中へ差し出されいと云つた。景尚の父官藏景次は播磨國高砂の城主駿河守景則と孝高の母の姉、明石氏との間に生れた子で、此景次が|尾エ《をのえ》氏を娶《めと》つて生ませたのが景尚である。尾エ氏は父を安右衞門と云つて、孝高の妹婿《いもうとむこ》である。安右衞門が戰歿し、未亡人黒田氏が尼になつてから、尾エ氏は孝高の夫人櫛橋氏の侍女になつてゐるうちに、孝高の手が附いて姙娠した。景次は君命によつてこれを娶《めと》つて景尚を生ませた。それだから景尚は實は孝高の庶子、長政の弟、忠之の伯父である。此書附は用立たずにしまつたが、後明和五年になつて黒田筑前守繼高の手に梶原家から戻つた。
忠之の江戸へ召された頃、利章は日田の竹中が役宅に身を寄せて、評定《ひやうぢやう》の始まる前に、竹中に連れられて江戸へ出た。
利章は盛岡へ立つ時、嫡男大吉利周を連れて立つた。家來で隨從したのは仙石角右衞門、財津大右衞門を始として、譜代の者共數十人であつた。福岡の黒田兵庫が邸に預けられた利章の妻黒田氏と二男吉次郎とには、後に五百石の扶持を賜はることになつた。
利章は盛岡に往つた時四十四歳で、まだ元氣盛んであつたので、妾内山氏を納《い》れた。此女の腹に、後に女子が出來た。
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忠之が長崎番を命ぜられた寛永十八年の冬、盛岡に遠からぬ天領の代官井上某が利章の人柄を慕つて面會したいと言ひ入れた。利章は「浮浪の身の上なれば、御ことわり可申歟《まうすべきか》とも存候へども、閑居徒然の折柄、御尋に預候はば、面談可申候」と返事をした。
井上が廣小路の邸を尋ねて、一間に通つた時、頭巾《づきん》を被つて爐に當つてゐた利章は顏を上げて、「御出御苦勞に存ずる」と、居直りもせずに挨拶した。歳は五十一歳であるが、血色は壯年のものに劣らない。
井上は直參《ぢきさん》の自分に對する挨拶《あいさつ》としては、少し勝手が違ふやうに感じて、暫く樣子を見てゐたが、主人は右の挨拶の外には別に無禮な擧動もせぬ。そこで二言三言物語をして歸つた。
邸を出てから井上は主人の態度を思ひ浮べて、どう云う心持ちであんな挨拶をしたかと考へた。家に歸つてからも、それを考へ續けた。併しどうしても分からぬので、今一應尋ねて先方の腹を探つてみようと決心した。
二度目に往くと、利章は又同じ態度で挨拶した。そこで井上が先づ舌戰の火蓋《ひぶた》を切つた。自分が再度まで尋ねるのは、貴殿を非凡の人だと聞き及んで、物事を相談し、場合によつては指南を受けようと思ふからである。然るに貴殿の樣子は格別凡人と異なるやうにも見えぬ。聊《いさゝか》案外に存ずると云つたのである。
利章は答へた。なる程自分は凡人かも知れぬ。併し人の賢愚正邪は實のある話をした上で分かるものである。
井上は云つた。然らばお尋する。自分は不肖ながら直參の身分である。それに貴殿が居直りもせずに挨拶せられるのは、どう云ふ御所存か承りたい。
利章は答へた。それは貴殿の考が至らぬのである。自分は筑前にゐた時、左右良の城主で二萬五千石を領してゐた。大阪役の後に、悉《ことごと》く天下の端城《はじろ》を毀《こぼ》たれたので、左右良も其數には洩《も》れなかつた。併し采地は依然としてをつた。又黒田家の家老としては五十餘萬石の國政を與《あづか》り聞き、五萬餘の士卒を支配した。黒田家程の家の去就は天下の安危に關する。現に關が原の役にも、孝高、長政を身方に附けて、徳川家は一統の業を成された。然れば自分は、三四百俵の代官たる貴殿に、手を下げ膝を屈するいはれがない。
此答を聞いて井上は、げにもと悟つて、自分の不心得を謝し、利章と親密に交つて種々の事を質《たゞ》した。
井上が軍法諸流の得失を問うた時、利章は云つた。政治は文武を併せ用ゐるものである。文は寛、武は猛である。武は兇器を用ゐることをのみ言ふのではない。敢爲邁往《かんゐまいおう》の政は皆武である。軍法は武を用ゐる一端に過ぎぬ。流義の沙汰は無用で、七書以外に格別の物は無い。手元を丈夫にして置き、敵情を十分吟味して戰へば勝つ。軍法は常にある。戰場の人員、備立《そなへたて》のみを軍法として心得ては、大局の利を收めることは覺束《おぼつか》ない。
城の繩張の善惡を問うた時、利章は云つた。城は亂世に妻子糧米、器具を入れる物置である。百姓町人の土藏と同じである。名將は城廓に重きを置かぬ。忠實な臣下が即城である。諸侯の身の上では天子の外に
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