憚るものは無い。良臣を養つて置いて、時勢を見合はせ、一寸なりとも領地を擴めることを心掛くるが肝要である。
武士の志を問うた時、利章は云つた。志は大きくなくてはならぬ。唐土に生れたなら、天子にならうと志すが好い。日本に生れたなら、關白|公方《くばう》にならうと志すが好い。さてそれを爲し遂げるには身を愼み人を懷《なつ》けるより外は無い。既に國郡が手に入つたら、人物を鑑識して任用しなくてはならぬ。用に立つ人物は、十人の内六人|譽《ほ》め四人|誹《そし》るものである。十人が十人譽めるものは侫奸《ねいかん》である。猶《なほ》一つ心得て置くべきは權道である。これを見切と云ふ。取るは逆、守るは順であるから、これは不義だと心附いた事も、こればかりの踏違へは苦しうないと、強く見切つて決行するものである。
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利章は承應元年三月一日に六十二歳で亡くなつた。江戸で徳川家光が亡くなつて、家綱が嗣《つ》いだ年の翌年である。利章の墓と大きな碑とが、今陸中國巖手群米内村|愛宕《あたご》山法輪院|址《あと》の山腹に殘つてゐる。妾山内氏の生んだ女子には婿養子が出來て、南部家に仕へた。内山善吉と云ふ二百石取がそれである。栗山の名は人に故主の非を思はせるからと云つて、利章がわざと外戚の苗字《めうじ》を冒《をか》させた。利章の家來仙石、財津も南部家に召し出されて、各五十石を受けた。嫡男利周は黒田家の聘《へい》を斥《しりぞ》けて、處士を以て終つた。
[#地から1字上げ](大正三年九月)
底本:「森鴎外全集第4巻」筑摩書房
1959(昭和34)年5月30日初版発行
1964(昭和39)年8月5日7版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:山田豊
校正:伊藤時也
1999年11月27日公開
2006年4月28日修正
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