娘が一しよに奉公してゐたのを蚊帳の外にすわらせ、話をさせて置き、二人の見知人を一間隔てた所へ案内して覗《のぞ》かせた。幸に見知人は兩夫人に相違ないと云つて引き取つた。
 利安等はどうかして兩夫人を逃がさうと謀《はか》つた。黒田家の運漕用達《うんさうようたし》に播磨國家島の船頭|梶原《かぢはら》太郎左衞門と云ふものがある。此太郎左衞門をかたらつて舟の用意をさせた。併し豐臣方では福島の下、傳法川と木津川との岐《わか》れる所に、舟番を置いて、諸大名の夫人達を逃がさぬ用心をしてゐる。武裝した軍兵百人を載せた大舟と、二|艘《さう》の小舟とから、此舟番は成り立つてゐる。利安等は隙《すき》を窺《うかゞ》つてゐたが、どうも舟番所を拔ける手段が得られなかつた。
 兎角《とかく》するうちに七月十七日になつた。いよ/\徳川方の諸大名の夫人を、人質として大阪城の本丸に入れることになつて、豐臣方では最初に城に近い細川越中守|忠興《たゞおき》の邸へ人數を差し向けた。細川の家老がことわるのを聽かずに、軍兵は奥へ踏み込んだ。細川夫人明智氏は、城内に入つて面《おもて》を曝《さら》すのがつらく、又徳川家に對する夫の奉公に障《さは》つてはならぬと云つて、自刄した。家臣小笠原備前、河喜多|石見《いはみ》等は門を閉ぢて防戰し、遂《つひ》に火を放つて切腹した。豐臣方ではこれに懲りて諸大名の夫人を城内に入れることを罷《や》めた。
 利安等は兼《かね》て福島の上流に小舟を出して、舟番所の樣子を見せて置くと、舟番の者共は細川邸の燒けるのを見て、多人數小舟に乘つて火事場へ往つた、其報告を得て、利安等は兩夫人を大箱に入れて、納屋《なや》の裏口から小舟に載せた。友信は穗の長さ二尺六寸餘、青貝の柄の長さ七尺五寸二分ある大身の槍《やり》に熊《くま》の皮の杉なりの鞘《さや》を篏《は》めたのを持たせ、屈竟《くつきやう》の若黨十五人を具して舟を守護した。舟が舟番所の前まで來ると、太兵衞は槍を手挟《たばさ》んで、兼ねて識合《しりあひ》の番所頭《ばんしよがしら》菅右衞門八に面會を求めた。さて云ふには、在所へ用事|出來《しゆつたい》して罷《まか》り下る、舟のお改《あらため》を願ひたいと云ふのである。友信が大兵で、ひどく力の強いことを右衞門八は知つてゐたので、いく地なく舟を改めるには及ばぬと云つた。そこで傳法川を下つて、待たせてあつた太郎左衞門が舟に兩夫人を移した。其時保科氏の侍女の一人で菊と云ふのが、邸を拔けて跡を慕つて來たので、それをも載せた。此舟は友信が保護の下に、首尾よく四日目に中津川へ著いた。重昌は水路を和泉國境《いづみのくにざかひ》へ出て、そこから更に乘船し、利安は陸路を播磨の室《むろ》まで行つて、そこから乘船して中津川へ歸つた。中津川からは、隠居孝高入道如水が、大阪の模樣を察して、兩夫人を迎へるために母里與三兵衞に舟を廻させたが、間に合はなかつた。大阪|天滿《てんま》の邸には四宮市兵衞が殘つて、豐臣方の奉行等に對して命懸《いのちがけ》の分疏《いひわけ》をした。此後加藤|主計頭《かぞへのかみ》清正の夫人を、梶原助兵衞が連れて、同じく大阪を拔け出し、これも中津川へ著いて、妻の兄梶原八郎太夫の家に泊まつたので、如水は加藤夫人に衣類を贈り、保科氏に附いて歸つた侍女菊を熊本まで附けて遣つた。
 翌慶長五年關ヶ原の功に依つて筑前國を貰つた長政は、年の暮に始て粕屋郡《かすやごほり》名島の城に入つた。六年には一旦《いつたん》京都へ上つて歸つた如水と相談して、長政が當時|那珂《なか》郡警固村の内になつてゐた福崎に城を築いた。これが今の筑紫《ちくし》郡福岡である。此時一しよに築かれた端城《はじろ》六箇所の内で、上座郡|左右良《まてら》の城は利安、鞍手《くらて》郡高取の城は友信、遠賀《をんが》郡黒崎の城は之房が預つた。七年十一月に福岡城の東の丸で、長政の嫡男忠之が生れた。小字萬徳である。本丸は警固大明神の社のあつた跡なので、血の汚《けがれ》を避けて、これも利安に預けてある東の丸に産所をしつらはせたのである。九年には城の三の丸で、如水が五十九歳で亡くなつた。十一年には長政の長女徳、十五年には二男犬萬、十七年には三男萬吉が生れた。犬萬は後の長興《ながおき》、萬吉は後の隆政である。
 十九年から元和元年に掛けて、大阪に豐臣氏の亂があつた。十九年の冬の陣には、長政が江戸を守り、十三歳の忠之が傷寒のまだなほらぬのに、押して福岡から上つた。長政の下には利章がをり、福岡へは江戸から利安が下つて留守をした。元和元年の夏の陣には、長政は江戸から、忠之は福岡から大阪へ出向いた。利安は筑前に殘つて、利章は忠之の手に加はつた。保科氏が徳、犬萬、萬吉の三人を連れて江戸に往つたのは大阪落城の直後である。
 駿府《すんぷ》で徳川家康の亡くなつた元和二年に、黒田家では長政の三女|龜《かめ》が生れた。八年に將軍秀忠が久松甲斐守忠良の娘の十七歳になるのを、養女にして忠之の許《もと》へ嫁《とつ》がせた。九年は秀忠が將軍職を家光に譲つた年である。秀忠親子は上洛《じやうらく》する時、江戸から長政を先發させた。五十三歳になる長政は、忠之を連れて上り、二條の城にゐて、膈噎《かくいつ》の病で亡くなつた。遺言は利章と小河内藏允とが聽いた。遺骸《ゐがい》は領國へ運んで、箱崎の松原で荼毘《だび》にした。此時|柩《ひつぎ》の先へは三十三歳になる利章が手を添へ、跡へは二十二歳になる忠之が手を添へた。利安は長政の亡くなつた時、七十三歳で剃髪して、一葉齋|卜庵《ぼくあん》と名告つた。
 かうした間柄の忠之と利章とが、なぜ生死の爭ひをするやうになつたか。これは利章が變つたのではなくて、忠之が變つたのである。
 忠之は壯年の身を以て、忽ち五十二萬二千四百十六石の大名になつた。生得《しやうとく》聰明な人だけに、老臣等に掣肘《せいちゆう》せられずに、獨力で國政を取り捌《さば》いて見たかつた。それには手足のやうに自由に使はれる侍が欲しい。丁度先年中津川で召し抱へられた足輕頭《あしがるがしら》倉八長四郎の子に、十太夫と云ふ怜悧《れいり》な若者がゐた。忠之はそれを近習に取り立てゝ、次第に任用して、短い月日の間に、秩祿《ちつろく》を加へられる度數の多いので、心あるものは主家のため、領國のために憂へ、怯懦《けふだ》のものは其人を畏《おそ》れ憚《はゞか》り、陋《いや》しいもの、邪《よこしま》なものは其人にたよつて私を濟さうとするやうになつた。
 然《しか》るに先代長政が臨終に、利章と小河とが聞き取つた遺言には、國政萬端利章、一成、内藏允の三家老で相談し、重大な事は一應之房、利安の兩隱居に告げて取り極める筈《はず》になつてゐる。そこで長政の亡くなつた翌年、寛永元年四月に三家老は一枚の起請文《きしやうもん》を書いて忠之に呈した。第一に三人は忠之に對して逆意を懷かぬ事、第二に何人《なんびと》を問はず、忠之に背き、又は國家の害をなすと認めた時は、三人が忠之に告げて其人の處置を請ふ事、第三に三人を離間するものがあるときは、必ず互に打ち明けて是非を正す事、第四に三人は兄弟同樣に心得る事、第五に三人の中で讒誣《ざんぶ》に逢ふものがあつたときは、三人同意して忠之に告げる事、以上五箇條である。今異數の拔擢《ばつてき》を蒙《かうむ》つてゐる十太夫は、心底の知れぬものなので、若し右の第二に當るものではなからうかと、三人は朝夕目を附けてゐた。
 併し十太夫の勤振《つとめぶり》にはこれと云ふ廉立《かどだ》つた瑕瑾《かきん》が無い。只《たゞ》利章等が最初に心附いたのは、これまで自分等の手を經て行はれた事が、段々自分等の知らぬ内に極まるやうになると云ふだけである。そう云ふ風に忠之と下役のものとが、直に取り計らふ件々は、最初どうでも好いやうな、瑣細《ささい》な事ばかりであつたが、それがいつの間にか稍《やゝ》大きい事に及んで來た。利章等が跡からそれを役々のものに問ふと、別に仔細はない、只心附かなかつたと云ふ。かう云ふ問答が度重なる。利章等は始終事件の跡を追つて行くやうな傾になつた。
 利章等は安からぬ事に思つた。そこで折々忠之に事務の手續が違つたのを訴へると、忠之も別に仔細はない、只心附かなかつたと云ふ。下《しも》に向いて糺《たゞ》しても、上《かみ》に向いて訴へても、何の效果も見えなかつた。
 利章等はいつか、どうにかして此惡弊を改めたいと思った。此惡弊が暫時《ざんじ》も君側を離れぬ新參十太夫の勤振と連係してゐることは、言ふまでもなかった。併し獨り十太夫に廉立った瑕瑾がないばかりでなく、政事向にも廉立った過失がない。利章等は只|殆《ほとん》ど本能的に形勢の變じて行くのを感ずるだけである。
 利章等は眼を鋭くして見た。そして次第にその變じて行く形勢を見分けることが出來た。
 先づ認められるのは政事向一般に弛《ゆる》みが出た事である。忠之の表へ出座する時刻が遲れ勝になり、奥へ引籠む時刻が早目になった。随《したがつ》て役人等も遲く出て早く引くやうになつた。忠之は參府の間も此習慣の儘《まゝ》に振舞って、登城に遲れ、又早目に退出するのである。領國から江戸への使者、豐後にをる徳川家の目附への使者なども、前々よりは日取りが繰り下げられるやうになつた。
 次に認められるのは、兎角物事が輕々しく成り立って慌《あわ》ただしく改められる事である。最甚《もつともはなはだ》しい一例は、江戸への使者を、初に森正左衞門に命じ、次いで月瀬|右馬允《うめのじよう》に改め、又元の森に改め、終《つひ》に坪田正右衞門に改めたのである。人を任用する上にも、きのふまで目を懸けて使はれたものが、俄《にはか》に勘氣を蒙《かうむ》ることがある。
 次に遊戯又はそれに近い事が、眞面目《まじめ》な事のゆるかせにせられる中で、活氣を帶びて行はれ、それに關係した嚴重な、微細な掟《おきて》が立てられるのが認められる。申樂《さるがく》の者が度々急使を以て召され、又|放鷹《はうよう》の場では旅人までが往來を禁ぜられる類《たぐひ》である。忠之が江戸からの歸に兵庫の宿で、世上の聞えをも憚らずに、傀儡女《くぐつめ》を呼んだこともある。
 次に驕奢《けうしや》の跡が認められる。調度や衣服が次第に立派になつて、日々の饌《ぜん》も獻立がむづかしくなつた。
 次に葬祭弔問のやうな禮がなほざりになるのが認められる。寛永三年九月十五日に大御臺所《おほみだいどころ》と稱さられてゐた前將軍秀忠の母、織田氏達子の亡くなつた時、忠之は精進をせぬみか、放鷹に出た。家康の命日、孝高の命日にも精進をせず、江戸から歸つても、孝高、長政の靈屋《たまや》に詣《まう》でぬやうになつた。
 差當りこれ位の事が目に留まつてゐるが、どれも重大と云ふ事ではない。尤《もつと》も此形勢で押して行くうちに、物に觸れて重大な事が生ずるやも知れない。何か機會を得たら、しつかり主君に言ふ事にしようと、利章等三人は思つてゐた。
 そのうち罪なくして罰せられたものが一人と、罪あつて免《ゆる》されたものが一人と、引き續いて出來て、どちらも十太夫に連係した事件であつた。一つは博多《はかた》の町人が浮世又兵衞の屏風《びやうぶ》を持つてゐるのを、十太夫が所望してもくれぬので、家來を遣つて強奪させ、それを取り戻さうとする町人を入牢させたのである。今一つは志摩郡の百姓に盗をして召し取られたものがあつて、それが十太夫の妾《せう》の兄と知れて放されたのである。
 利章はとう/\決心して、一成、内藏允に相談し、自ら筆をとつて諫書《かんしよ》を作つた。部類を分けて、經史を引いて論じたのが、通計二十五箇條になつた。決心の近因になつた不正裁判は、賞罰明ならずと云ふ部類に入れて、十太夫を弾劾《だんがい》することに重きを置かず、專ら忠之の反省を求めることにした。さて淨書して之房の道柏、利安の卜庵に被見《ひけん》を請うたのが、寛永三年十一月十二日である。道柏、卜庵はすぐに奥書をして、小林|内匠《たくみ》、衣笠《きぬがさ》卜齋、岡善左衛門の三人に披露を頼んだ。
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