栗山大膳
森鴎外

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)筑前國《ちくぜんのくに》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)福岡の城主黒田|右衞門佐忠之《うゑもんのすけたゞゆき》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「|有之間敷候《これあるまじくそろ》」は底本では「有|之間敷候《これあるまじくそろ》」]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)偶《たま/\》
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 寛永九年六月十五日に、筑前國《ちくぜんのくに》福岡の城主黒田|右衞門佐忠之《うゑもんのすけたゞゆき》の出した見廻役が、博多《はかた》辻《つじ》の堂《だう》町で怪しい風體の男を捕へた。それを取り調べると、豐後國《ぶんごのくに》日田にゐる徳川家の目附役竹中|采女正《うねめのしやう》に宛《あ》てた、栗山大膳利章《くりやまだいぜんとしあき》の封書を懷中してゐた。城内でそれを開いて見れば、忠之が叛逆《はんぎやく》の企をしてゐると云ふ訴であつた。
 當時忠之と利章とは、非常に緊張した間柄になつてゐた。年の初に前將軍徳川|秀忠《ひでたゞ》の葬儀が濟んで、忠之が下國した時、主立《おもだ》つた諸侍は皆箱崎まで迎に出たのに、利章一人は病氣と稱して城下の邸《やしき》に閉ぢ籠《こも》つて出なかつた。そこで忠之は利章の邸の前を通る時、山下平兵衞を使に遣《や》つて、容態を尋ね、全快次第出勤せいと云はせた。其後も忠之は度々見舞の使を遣り、又利章の療治をしてゐると云ふ醫師|鷹取長松庵《たかとりちやうしようあん》に容態を尋ねた。さて使や醫師の復命を聞くに、どうも利章は重病ではないらしかつた。それから六月十三日になつて、忠之は黒田|市兵衞《いちべゑ》、岡田|善右衞門《ぜんゑもん》の二人を利章の所へ使に遣つて歩行の協《かな》はぬ程の重體ではあるまいから、從《たと》ひ手を引かれてでも出て貰《もら》ひたいと云はせた。利章は歩行が出來ぬから、いづれ全快した上で出仕すると答へた。忠之はすぐに黒田、岡田の二人を再度の使に遣つて、從ひ途中で眩暈《めまひ》が起つても、乘物で城門まで來て貰ひたい。それもならぬなら、當方から出向いて面會すると云はせた。利章は又どうしても全快の上でなくては出ぬと答へた。忠之は二人の使に、利章の身邊には家來が何人位ゐたか、又武具があつたかと問うた。二人の答は、家來は二十人ばかりゐて、我等の前後左右を取り卷き、武具も出してあつたと云ふことであつた。忠之は城内|焚火《たきび》の間《ま》で、使の此《この》答を聞いてゐたが、思ひ定めたらしい氣色《けしき》で、兎《と》に角《かく》栗山が邸へ押し懸《か》けて往くから、一同用意せいと云ひ棄てゝ奥に入つた。諸侍は家々へ武具を取りに遣る。噂《うはさ》は忽《たちま》ち城下に廣《ひろ》まつて、番頭組《ばんがしらぐみ》の者や若侍は次第に利章が邸の前へ詰め懸けた。此時老臣の中で、當時|道柏《だうはく》と名告《なの》つてゐた井上|周防之房《すはうこれふさ》と、小河内藏允《をがうくらのじよう》との二人が、忠之の袂《たもと》に縋《すが》つて、それは餘り輕々しい、江戸へ聞こえても如何《いかが》である、利章をば我々が受け合つてどうにも處置しよう、切腹させよとなら切腹もさせようと云つて諫《いさ》めた。忠之はやうやう靜まつた。井上、小河の二人は次へ出て、利章方へ一人たりとも參つてはならぬと觸れ、利章の邸の前に往つてゐた者共を、利章の姉婿《あねむこ》で、當時|睡鴎《すゐあう》と名告つてゐた黒田|美作《みまさく》が邸と、其向側の評定所《ひやうぢやうしよ》とへ引き上げさせた。翌十四日に井上、小河は城内の事を利章に告げた。利章はすぐに剃髪《ていはつ》して、妻と二男吉次郎とを人質として城内へ送つた。人質は利章の外舅《ぐわいきう》黒田兵庫に預けられた。利章が徳川の目附竹中に宛てた密書を、忠之が手に入れたのは其翌日の事である。
 忠之も城内に出仕してゐた諸侍も、利章がかう云ふ書面を書いたのを意外に思つた。徳川家に対して叛逆をしようと云ふ念が、忠之に無いのは言ふまでもない。異心を懷《いだ》かぬのに、何事をか捉《とら》へて口實にして、異心あるやうに、認められはすまいかと云ふのが、當時の大名の斷えず心配してゐる所である。慶長十四年に藤堂佐渡守高虎《とうだうさどのかみたかとら》が率先して妻子を江戸に置くことにしたのを始として、元和《げんな》元年大阪落城の後、黒田家でも忠之の父|長政《ながまさ》が、夫人|保科《ほしな》氏に長女とく、二男犬萬、三男萬吉の三人を添へて江戸に置くことにした。保科氏は現に當主のよめ久松氏と一しよに江戸にゐる。これもどうにかして徳川氏に対して他意のないことを示さうとする手段である。
 それに、異心のない忠之を異心があると訴へる人が利章だと云ふのに、忠之と其周圍の人達とはあきれた。いかにも忠之と利章とは極端まで緊張した間柄にはなつてゐる。今一歩進んだら忠之が利章に切腹を命ずるだらうと云ふ處まで、主從の爭は募つてゐる。併《しか》しそれは忠之の方で、彼奴《かやつ》どれだけの功臣にもせよ、其功を恃《たの》んで人もなげな振舞をするとは怪《け》しからんと思ひ、又利章の方で、殿がいくら聰明でも、二代續いて忠勤を勵んでゐる此|老爺《らうや》を蔑《ないがしろ》にすると云ふことがあるものかと思つての衝突である。忠之は憎みつゝも憚《はゞか》つてをり、其周圍の人達は憚りつゝも敬つてをつた利章が、どうして主君を無實の罪に陷いれようとするか、誰《たれ》にも判斷が附かぬのである。
 利章の密書は只《たゞ》忠之主從を驚きあきれさせたばかりではない。主從は同時に非常な懼《おそれ》を懷いた。なぜと云ふに、忠之が叛逆を企てたと云ふ本文の外に、利章の書面には追而書《おつてがき》が添へてあつた。其文句は、此の書面は相違なく御手元に屆くやうに、同時に二通を作つて、二人に持たせて、別々の道を經て送ると云ふのである。さうして見れば、黒田家で偶《たま/\》其一通をば押へたが、別に一通が無事に日田の竹中に屆いて、竹中から江戸の徳川家へ進達せられた事と察せられる。原來《ぐわんらい》利章程の家の功臣を殺したら、徳川家に不調法として咎《とが》められはすまいかと云ふことは、客氣《かくき》に驅られた忠之にも、微《かす》かに意識せられてゐたが、此訴が江戸へ往つたとすると、利章は最早《もはや》どうしても殺すことのならぬ男になつた。なぜと云ふに、逆意の有無を徳川氏に糺問《きうもん》せられる段になると、其|讒誣《ざんぶ》を敢《あへ》てした利章と對決するより外に、雪冤《せつゑん》の途はないのである。

     ――――――――――――

 利章の父栗山利安は、素播磨《もとはりま》の赤松氏の支流で、小字《こあざ》は善助、中ごろ四郎右衞門と稱し、後に備後と名告つた。天文二十年に播磨國|淡河《あがう》の城に生れ、永祿八年に十五歳で、同國姫山の城主黒田官兵衞|孝高《よしたか》に仕へ、永祿十一年に孝高の嫡子松壽が生れてから、若殿附にせられた。孝高は忠之の祖父、後に長政となつた松壽は忠之の父である。
 天正六年に荒木|攝津守《せつつのかみ》村重が攝津國|伊丹《いたみ》の有岡城に籠《こも》つて織田信長に背《そむ》いた。其時孝高は村重を諫《いさ》めに有岡城に往つて、村重に生け捕られた。利安は後|但馬《たじま》と云つた母里《もり》太兵衞友信、後|周防《すはう》と云つた井上九郎次郎之房等と、代わる/″\商人の姿に身を窶《やつ》して、孝高の押し籠められてゐる牢屋《らうや》の近邊を徘徊《はいくわい》して主を守護した。中にも利安は伊丹の町の銀屋をかたらつて、闇夜《あんや》に番兵を欺き、牢屋の背後の溜池《ためいけ》を泅《およ》いで牢屋に入り、孝高に面會した。翌年十一月瀧川|左近一益《さこんかずます》が有岡城を攻め落した時、利安は番人の逃げ去つた跡へ來て、錠を打ち破つて孝高を連れ出し、有馬に往つて湯治をさせて、やうやう足腰の立つやうにした。
 十年に信長が明智《あけち》日向守光秀《ひうがのかみみつひで》に殺された。孝高父子は此時から木下|秀吉《ひでよし》の下に附いて働き、十五年には孝高は豐前國《ぶぜんのくに》六郡の主にせられた。此時利安は領地を分けて貰つた。十七年に孝高は隠居して如水軒圓清と號し、黒田家は甲斐守《かひのかみ》長政の世となつた。利安の妻森尾氏の腹に嫡子大吉が生れたのは、それから二年目の天正十九年正月二十二日で、此大吉が後の大膳利章である。文祿元年の朝鮮陣には、長政が利安、友信を連れて渡り、孝高は跡から豐臣《とよとみ》秀吉の使として京城《けいじやう》に入つた。
 慶長四年に徳川家康が會津の上杉|影勝《かげかつ》を攻めに關東へ下つた時、長政は從軍したが、出發前に大阪|天滿《てんま》の邸で利安、友信、それから後に織部と云つた宮崎助太夫|重昌《しげまさ》の三人を呼んで細かい訓令を與へた。留守中に豐臣方の亂が起つたら、城内へ人質に取られぬ内に、母と妻とを中津川へ連れて逃げてくれ。まだ亂の起らぬのに、早まつて落ちさせてはならぬ。又其場合に誤つて二人の女子を奪はれてもならぬ。利安は友信と敵に當り、重昌は二人の女子の側に殘つてゐて、逃されぬと見極めたら、重昌は二人を殺して自殺してくれと云ふのであつた。暫《しばら》くすると、果して石田|治部少輔三成《ぢぶせういうみつなり》が佐和山城から出て來て、身方の諸大名を大阪へ集めた。利安等は四十八歳になつた孝高の妻|櫛橋氏《くしばしうぢ》と、十六歳になつた長政の妻保科氏とを俵にくるんで、しかかごと云ふものに入れ、浴室の壁の下を穿《うが》つて持ち出し、商人に粧つた友信に擔《にな》はせて、邸の裏の川端《かはばた》に繁つた蘆《あし》の間を通り、天滿の出入商人|納屋《なや》小左衞門方へ忍ばせた。これは豐臣方の遠見の番人に見付けられぬためである。さて納屋方《なやかた》では兩夫人を内藏《うちくら》に入れ、又家捜しをせられた時の用心に、主人小左衞門が寢所の板敷を疊一疊の幅だけ穿つて、床下に疊を敷き、藏からそこへ移すことの出來るやうにして置いた。それから小左衞門夫婦が奉公人に知らせぬやうに食事を運んだ。小左衞門の家には重昌が世話になつてゐて守護し、友信は其隣の家から見張つてゐた。
 二三日立つて、利安が東條紀伊守の邸へ樣子を伺ひに往つて、話をしてゐると、黒田邸へ軍兵《ぐんぴょう》が寄せると云ふ知らせがあつた。利安は、これは存じも寄らぬ、いかなる仔細《しさい》があつての事か、御存じかと云つて、主人紀伊守の氣色を伺つた。返答によつては紀伊守を討ち取つて黒田邸へ歸らうと思つたのである。紀伊守は一向存ぜぬと云つた。利安は馬を飛ばせて天滿へ歸つた。黒田邸にはまだ何事もない。そこへ郡主馬宗保《こほりしゆめむねやす》の密使が來て、今軍兵が寄せると云つた。間もなく騎馬武者五十人、徒歩《かち》の者六百餘人が鐵砲二百|挺《ちやう》を持つて黒田邸を取り卷いた。寄手《よせて》の引率者は兩夫人がをられるかと問うた。利安は兩人共たしかにをられると受け合つた。寄手は定番《ぢやうばん》を殘して引き取つた。次いで城内の使が來て、見知人をよこすから、兩夫人を見せてくれと云つた。利安は一應、士《さむらひ》の女房の面吟味《おもてぎんみ》はさせられぬ、とことわつた。使は、外の大名の内室をも見ることになつてゐるから、是非物蔭から見せてくれと云つた。利安は甲斐守歸邸の上、いかなる咎《とがめ》に逢《あ》はうも知れぬ事ではあるが、是非なき場合ゆゑ、物蔭から見させようと云つた。見知人が來た。一人は櫛橋氏の若かつた時見たことのある女、今一人は保科氏の十二歳の時見たことのある女である。利安は信濃産《しなのうまれ》の侍女で、小笠原内藏助《をがさはらくらのすけ》と云ふものの娘に年|恰好《かつかう》の櫛橋氏に似たのがあるので、それを蚊帳《かや》の中に寢させ其侍女の
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