水軒圓清と號し、黒田家は甲斐守《かひのかみ》長政の世となつた。利安の妻森尾氏の腹に嫡子大吉が生れたのは、それから二年目の天正十九年正月二十二日で、此大吉が後の大膳利章である。文祿元年の朝鮮陣には、長政が利安、友信を連れて渡り、孝高は跡から豐臣《とよとみ》秀吉の使として京城《けいじやう》に入つた。
慶長四年に徳川家康が會津の上杉|影勝《かげかつ》を攻めに關東へ下つた時、長政は從軍したが、出發前に大阪|天滿《てんま》の邸で利安、友信、それから後に織部と云つた宮崎助太夫|重昌《しげまさ》の三人を呼んで細かい訓令を與へた。留守中に豐臣方の亂が起つたら、城内へ人質に取られぬ内に、母と妻とを中津川へ連れて逃げてくれ。まだ亂の起らぬのに、早まつて落ちさせてはならぬ。又其場合に誤つて二人の女子を奪はれてもならぬ。利安は友信と敵に當り、重昌は二人の女子の側に殘つてゐて、逃されぬと見極めたら、重昌は二人を殺して自殺してくれと云ふのであつた。暫《しばら》くすると、果して石田|治部少輔三成《ぢぶせういうみつなり》が佐和山城から出て來て、身方の諸大名を大阪へ集めた。利安等は四十八歳になつた孝高の妻|櫛橋氏《く
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