人に持たせて、別々の道を經て送ると云ふのである。さうして見れば、黒田家で偶《たま/\》其一通をば押へたが、別に一通が無事に日田の竹中に屆いて、竹中から江戸の徳川家へ進達せられた事と察せられる。原來《ぐわんらい》利章程の家の功臣を殺したら、徳川家に不調法として咎《とが》められはすまいかと云ふことは、客氣《かくき》に驅られた忠之にも、微《かす》かに意識せられてゐたが、此訴が江戸へ往つたとすると、利章は最早《もはや》どうしても殺すことのならぬ男になつた。なぜと云ふに、逆意の有無を徳川氏に糺問《きうもん》せられる段になると、其|讒誣《ざんぶ》を敢《あへ》てした利章と對決するより外に、雪冤《せつゑん》の途はないのである。

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 利章の父栗山利安は、素播磨《もとはりま》の赤松氏の支流で、小字《こあざ》は善助、中ごろ四郎右衞門と稱し、後に備後と名告つた。天文二十年に播磨國|淡河《あがう》の城に生れ、永祿八年に十五歳で、同國姫山の城主黒田官兵衞|孝高《よしたか》に仕へ、永祿十一年に孝高の嫡子松壽が生れてから、若殿附にせられた。孝高は忠之の祖父、後に長政となつた松壽は
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