他意のないことを示さうとする手段である。
 それに、異心のない忠之を異心があると訴へる人が利章だと云ふのに、忠之と其周圍の人達とはあきれた。いかにも忠之と利章とは極端まで緊張した間柄にはなつてゐる。今一歩進んだら忠之が利章に切腹を命ずるだらうと云ふ處まで、主從の爭は募つてゐる。併《しか》しそれは忠之の方で、彼奴《かやつ》どれだけの功臣にもせよ、其功を恃《たの》んで人もなげな振舞をするとは怪《け》しからんと思ひ、又利章の方で、殿がいくら聰明でも、二代續いて忠勤を勵んでゐる此|老爺《らうや》を蔑《ないがしろ》にすると云ふことがあるものかと思つての衝突である。忠之は憎みつゝも憚《はゞか》つてをり、其周圍の人達は憚りつゝも敬つてをつた利章が、どうして主君を無實の罪に陷いれようとするか、誰《たれ》にも判斷が附かぬのである。
 利章の密書は只《たゞ》忠之主從を驚きあきれさせたばかりではない。主從は同時に非常な懼《おそれ》を懷いた。なぜと云ふに、忠之が叛逆を企てたと云ふ本文の外に、利章の書面には追而書《おつてがき》が添へてあつた。其文句は、此の書面は相違なく御手元に屆くやうに、同時に二通を作つて、二
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