歸つた。
 邸を出てから井上は主人の態度を思ひ浮べて、どう云う心持ちであんな挨拶をしたかと考へた。家に歸つてからも、それを考へ續けた。併しどうしても分からぬので、今一應尋ねて先方の腹を探つてみようと決心した。
 二度目に往くと、利章は又同じ態度で挨拶した。そこで井上が先づ舌戰の火蓋《ひぶた》を切つた。自分が再度まで尋ねるのは、貴殿を非凡の人だと聞き及んで、物事を相談し、場合によつては指南を受けようと思ふからである。然るに貴殿の樣子は格別凡人と異なるやうにも見えぬ。聊《いさゝか》案外に存ずると云つたのである。
 利章は答へた。なる程自分は凡人かも知れぬ。併し人の賢愚正邪は實のある話をした上で分かるものである。
 井上は云つた。然らばお尋する。自分は不肖ながら直參の身分である。それに貴殿が居直りもせずに挨拶せられるのは、どう云ふ御所存か承りたい。
 利章は答へた。それは貴殿の考が至らぬのである。自分は筑前にゐた時、左右良の城主で二萬五千石を領してゐた。大阪役の後に、悉《ことごと》く天下の端城《はじろ》を毀《こぼ》たれたので、左右良も其數には洩《も》れなかつた。併し采地は依然としてをつた。又
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