易を仰せ附けられて落著した。
 忠之が出勤せぬ利章の邸へ、自分で押し掛けようとした怒には、嬖臣《へいしん》十太夫の受けた辱《はづかしめ》に報いるために、福岡博多の町人を屠《はふ》つた興奮が加はつてゐたのであつた。

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 寛永九年八月二十五日に、忠之の許《もと》へ徳川家の使者が來て參府の命を傳へた。忠之は始て夢の醒《さ》めたやうな心持になつて、一成、内藏允を連れて福岡を立つた。江戸近くなつて聞けば、品川口には旗本、鐵砲頭《てつぱうがしら》以下數十人が待ち受けてゐて、忠之を品川東海寺に入れやうとしてゐる。忠之は縱《たと》ひ身の破滅は兔れぬにしても、なるべく本邸で果てたいと云ふので、内藏允が思案して、忠之の駕籠《かご》を小人數で取り卷き、素槍《すやり》一本持たせて、夜|子《ね》の刻《こく》に神奈川を立たせた。此一行は夜中に品川を驅け拔けて、櫻田の上邸《かみやしき》に入つた。さて夜が明けてから、一成、内藏允が黒田家の行列を立てゝ品川口に掛かると、番所から使者が來て、阿部|對馬守《つしまのかみ》の申付である、黒田殿には御用があるによつて一先《ひとまづ》東海寺へ
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