足輕二百人に徒歩衆《かちしゆう》、働筒衆を併《あは》せて三百五十人、市兵衞の一行は僅に上下三十八人である。山鹿へ著いて正勝の旅館に伺候《しこう》すると、正勝はかう云つた。倉八十太夫とは聞きも及ばぬ姓名である、黒田市兵衞は筋目のものと聞き及ぶ、黒田を通せと云つた。十太夫は正使でありながら、上使に謁見することが出來ずに引き取つた。福岡博多の町人共は兼て十太夫の專横を憎んでゐたので、寄ると障ると山鹿の噂話をする。それを聞いて忠之は、利章等の諫書を讀んだ時よりも烈しく怒つて、山鹿の事を評判するものは見附次第討ち取れと命じた。間もなく町人が所所で斬られた。博多網場町で立話をしてゐた二人は、杉原平助が一人斬つて、一人取り逃がした。福岡呉服町で三鼎《みつがなへ》になつて話してゐた三人は、坂田加左衞門が一人斬つて二人取り逃がした。同《おなじく》唐人町で話してゐた二人も、濱田太左衞門が一人斬つて一人取り逃がした。町人共は震え上がつた。加藤家の事件は光正が父を讒誣《ざんぶ》したものとは知れたが、父忠廣には徳川家へ屆けずに生れた二歳の庶子某を領國へ連れて歸つた廉《かど》があるので、六月|朔日《ついたち》に改
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