忠之は諫書を讀んで怒つた。十太夫に對する妬《ねたみ》だと感じ、又穴搜しだと感じたのである。文章に經史が引いてあるので、利章が書いたと云ふことはすぐにわかつて、怒は利章一人の上に被《かぶ》さつた。忠之は利章を呼んで叱《しか》りたかつたが、利章は默つて叱られてをる男でないので、けぶたい思をして、面倒な話を聞くよりは、打ち棄てて置かうと思ひ返した。
利章等は固《もと》より、道柏、卜庵の二人も、忠之がなんとか沙汰《さた》をするだらうと思つて待つてゐたが、一向そんな摸樣がない。政事の機關は舊に依つて動いてゐる。十太夫は舊に依つて小賢《こざかし》げに立ち振舞つてゐる。前日と變つた事は、只忠之が利章に逢ふ度に顏を背《そむ》けるだけである。諫書にはこれだけの效果しかなかつた。
忠之が強情に此冷遇を持續すれば、利章も亦強情に隱忍してこれに報いた。そのうち寛永四年に亡くなつた孝高夫人櫛橋氏の喪も濟んだ。
翌五年に忠之は、參府の度毎《たびごと》に大阪と領國との間を航行するためだと云つて、寶玉丸と云ふ大船を造らせた。又十太夫の組下に附けると云つて、江戸へ屆けずに足輕三百人を募つた。諫書に擧げてあつた
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