足輕二百人に徒歩衆《かちしゆう》、働筒衆を併《あは》せて三百五十人、市兵衞の一行は僅に上下三十八人である。山鹿へ著いて正勝の旅館に伺候《しこう》すると、正勝はかう云つた。倉八十太夫とは聞きも及ばぬ姓名である、黒田市兵衞は筋目のものと聞き及ぶ、黒田を通せと云つた。十太夫は正使でありながら、上使に謁見することが出來ずに引き取つた。福岡博多の町人共は兼て十太夫の專横を憎んでゐたので、寄ると障ると山鹿の噂話をする。それを聞いて忠之は、利章等の諫書を讀んだ時よりも烈しく怒つて、山鹿の事を評判するものは見附次第討ち取れと命じた。間もなく町人が所所で斬られた。博多網場町で立話をしてゐた二人は、杉原平助が一人斬つて、一人取り逃がした。福岡呉服町で三鼎《みつがなへ》になつて話してゐた三人は、坂田加左衞門が一人斬つて二人取り逃がした。同《おなじく》唐人町で話してゐた二人も、濱田太左衞門が一人斬つて一人取り逃がした。町人共は震え上がつた。加藤家の事件は光正が父を讒誣《ざんぶ》したものとは知れたが、父忠廣には徳川家へ屆けずに生れた二歳の庶子某を領國へ連れて歸つた廉《かど》があるので、六月|朔日《ついたち》に改易を仰せ附けられて落著した。
忠之が出勤せぬ利章の邸へ、自分で押し掛けようとした怒には、嬖臣《へいしん》十太夫の受けた辱《はづかしめ》に報いるために、福岡博多の町人を屠《はふ》つた興奮が加はつてゐたのであつた。
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寛永九年八月二十五日に、忠之の許《もと》へ徳川家の使者が來て參府の命を傳へた。忠之は始て夢の醒《さ》めたやうな心持になつて、一成、内藏允を連れて福岡を立つた。江戸近くなつて聞けば、品川口には旗本、鐵砲頭《てつぱうがしら》以下數十人が待ち受けてゐて、忠之を品川東海寺に入れやうとしてゐる。忠之は縱《たと》ひ身の破滅は兔れぬにしても、なるべく本邸で果てたいと云ふので、内藏允が思案して、忠之の駕籠《かご》を小人數で取り卷き、素槍《すやり》一本持たせて、夜|子《ね》の刻《こく》に神奈川を立たせた。此一行は夜中に品川を驅け拔けて、櫻田の上邸《かみやしき》に入つた。さて夜が明けてから、一成、内藏允が黒田家の行列を立てゝ品川口に掛かると、番所から使者が來て、阿部|對馬守《つしまのかみ》の申付である、黒田殿には御用があるによつて一先《ひとまづ》東海寺へ
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