に、利章の父卜庵が左右良の別邸で眠るやうに亡くなつた。享年八十一歳である。其頃十太夫はとう/\家老の列に加へられて、九千石を貰つた。實收三萬石の采地《さいち》である。利章は勿論《もちろん》、一成も内藏允も井上内記も、十太夫がいかに御用に立つとは云へ、節目のないものを家老にせられるのは好くあるまいと云つたが、忠之は聽かなかつた。
暫くして忠之は、家老の家には什寶《じふはう》がなくてはならぬと云つて、家康が關が原の役に父長政に與へた具足を十太夫に遺《おく》つた。利章はこれを聞いて、自分で、倉八の邸へ出向いて、其具足を取り上げたが、これだけの事をするのに、忠之には一言もことわらなかつたのである。忠之は怒つたが、これも利章にはなんにも云はずにしまつた。
彼此《かれこれ》するうちに寛永九年になつて、前將軍秀忠が亡くなり、忠之は江戸で葬儀に列して領國へ歸つた。利章が出勤するとか、せぬとか云ふ爭がかうじて、忠之が自分で利章の邸へ出向かうとしたのは此時の事である。原來利章も我慢強いが、忠之も我慢強い。其忠之が此時に限つて、分別のなくなる程|苛立《いらだ》つたには別に原因がある。秀忠の亡くなつたのは正月二十四日で、二十六日の夜増上寺への野邊送《のべおくり》があり、二月二十二日に勅使が立ち二十六日に遺物分《かたみわけ》があり、三月十一日に忠之は暇《いとま》を賜はつて江戸を立つた。忠之が領國に著いた四月は、隣國肥後に大事件の起つた月である。
四月十日に江戸永田町の室賀源七郎正俊が邸へ匿名《とくめい》の書を持つて來たものがある。肥後國熊本の城主加藤肥後守忠廣逆心云々の文面である。正俊の舅《しうと》井上新左衞門は土井利勝に懇意にしてゐるので、それを利勝に告げた。利勝は正俊に命じて匿名の書を持つて來た男を搜索させた。十四日に麹町土橋で其男を捕へて見ると、忠廣の嫡子豐後守光正が家來前田五郎八と云ふものであつた。將軍家光は日光へ參詣して、下野國《しもつけのくに》宇都宮に泊つてゐるので、利勝は正俊を宇都宮へ遣つて訴へさせた。そこで稻葉丹後守正勝が熊本へ上使に立つて、忠廣は江戸へ召し寄せられることになつた。正勝は熊本へ行くのに、筑前國|遠賀《をんが》郡|山鹿《やまが》を過ぎるので、丁度下國したばかりの忠之は、福岡から迎接の使者を出した。正使は十太夫で、副使は黒田市兵衞である。十太夫の同勢は新規の
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