ものが、俄《にはか》に勘氣を蒙《かうむ》ることがある。
次に遊戯又はそれに近い事が、眞面目《まじめ》な事のゆるかせにせられる中で、活氣を帶びて行はれ、それに關係した嚴重な、微細な掟《おきて》が立てられるのが認められる。申樂《さるがく》の者が度々急使を以て召され、又|放鷹《はうよう》の場では旅人までが往來を禁ぜられる類《たぐひ》である。忠之が江戸からの歸に兵庫の宿で、世上の聞えをも憚らずに、傀儡女《くぐつめ》を呼んだこともある。
次に驕奢《けうしや》の跡が認められる。調度や衣服が次第に立派になつて、日々の饌《ぜん》も獻立がむづかしくなつた。
次に葬祭弔問のやうな禮がなほざりになるのが認められる。寛永三年九月十五日に大御臺所《おほみだいどころ》と稱さられてゐた前將軍秀忠の母、織田氏達子の亡くなつた時、忠之は精進をせぬみか、放鷹に出た。家康の命日、孝高の命日にも精進をせず、江戸から歸つても、孝高、長政の靈屋《たまや》に詣《まう》でぬやうになつた。
差當りこれ位の事が目に留まつてゐるが、どれも重大と云ふ事ではない。尤《もつと》も此形勢で押して行くうちに、物に觸れて重大な事が生ずるやも知れない。何か機會を得たら、しつかり主君に言ふ事にしようと、利章等三人は思つてゐた。
そのうち罪なくして罰せられたものが一人と、罪あつて免《ゆる》されたものが一人と、引き續いて出來て、どちらも十太夫に連係した事件であつた。一つは博多《はかた》の町人が浮世又兵衞の屏風《びやうぶ》を持つてゐるのを、十太夫が所望してもくれぬので、家來を遣つて強奪させ、それを取り戻さうとする町人を入牢させたのである。今一つは志摩郡の百姓に盗をして召し取られたものがあつて、それが十太夫の妾《せう》の兄と知れて放されたのである。
利章はとう/\決心して、一成、内藏允に相談し、自ら筆をとつて諫書《かんしよ》を作つた。部類を分けて、經史を引いて論じたのが、通計二十五箇條になつた。決心の近因になつた不正裁判は、賞罰明ならずと云ふ部類に入れて、十太夫を弾劾《だんがい》することに重きを置かず、專ら忠之の反省を求めることにした。さて淨書して之房の道柏、利安の卜庵に被見《ひけん》を請うたのが、寛永三年十一月十二日である。道柏、卜庵はすぐに奥書をして、小林|内匠《たくみ》、衣笠《きぬがさ》卜齋、岡善左衛門の三人に披露を頼んだ。
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