くなつた元和二年に、黒田家では長政の三女|龜《かめ》が生れた。八年に將軍秀忠が久松甲斐守忠良の娘の十七歳になるのを、養女にして忠之の許《もと》へ嫁《とつ》がせた。九年は秀忠が將軍職を家光に譲つた年である。秀忠親子は上洛《じやうらく》する時、江戸から長政を先發させた。五十三歳になる長政は、忠之を連れて上り、二條の城にゐて、膈噎《かくいつ》の病で亡くなつた。遺言は利章と小河内藏允とが聽いた。遺骸《ゐがい》は領國へ運んで、箱崎の松原で荼毘《だび》にした。此時|柩《ひつぎ》の先へは三十三歳になる利章が手を添へ、跡へは二十二歳になる忠之が手を添へた。利安は長政の亡くなつた時、七十三歳で剃髪して、一葉齋|卜庵《ぼくあん》と名告つた。
 かうした間柄の忠之と利章とが、なぜ生死の爭ひをするやうになつたか。これは利章が變つたのではなくて、忠之が變つたのである。
 忠之は壯年の身を以て、忽ち五十二萬二千四百十六石の大名になつた。生得《しやうとく》聰明な人だけに、老臣等に掣肘《せいちゆう》せられずに、獨力で國政を取り捌《さば》いて見たかつた。それには手足のやうに自由に使はれる侍が欲しい。丁度先年中津川で召し抱へられた足輕頭《あしがるがしら》倉八長四郎の子に、十太夫と云ふ怜悧《れいり》な若者がゐた。忠之はそれを近習に取り立てゝ、次第に任用して、短い月日の間に、秩祿《ちつろく》を加へられる度數の多いので、心あるものは主家のため、領國のために憂へ、怯懦《けふだ》のものは其人を畏《おそ》れ憚《はゞか》り、陋《いや》しいもの、邪《よこしま》なものは其人にたよつて私を濟さうとするやうになつた。
 然《しか》るに先代長政が臨終に、利章と小河とが聞き取つた遺言には、國政萬端利章、一成、内藏允の三家老で相談し、重大な事は一應之房、利安の兩隱居に告げて取り極める筈《はず》になつてゐる。そこで長政の亡くなつた翌年、寛永元年四月に三家老は一枚の起請文《きしやうもん》を書いて忠之に呈した。第一に三人は忠之に對して逆意を懷かぬ事、第二に何人《なんびと》を問はず、忠之に背き、又は國家の害をなすと認めた時は、三人が忠之に告げて其人の處置を請ふ事、第三に三人を離間するものがあるときは、必ず互に打ち明けて是非を正す事、第四に三人は兄弟同樣に心得る事、第五に三人の中で讒誣《ざんぶ》に逢ふものがあつたときは、三人同意して忠之に
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