左衞門が舟に兩夫人を移した。其時保科氏の侍女の一人で菊と云ふのが、邸を拔けて跡を慕つて來たので、それをも載せた。此舟は友信が保護の下に、首尾よく四日目に中津川へ著いた。重昌は水路を和泉國境《いづみのくにざかひ》へ出て、そこから更に乘船し、利安は陸路を播磨の室《むろ》まで行つて、そこから乘船して中津川へ歸つた。中津川からは、隠居孝高入道如水が、大阪の模樣を察して、兩夫人を迎へるために母里與三兵衞に舟を廻させたが、間に合はなかつた。大阪|天滿《てんま》の邸には四宮市兵衞が殘つて、豐臣方の奉行等に對して命懸《いのちがけ》の分疏《いひわけ》をした。此後加藤|主計頭《かぞへのかみ》清正の夫人を、梶原助兵衞が連れて、同じく大阪を拔け出し、これも中津川へ著いて、妻の兄梶原八郎太夫の家に泊まつたので、如水は加藤夫人に衣類を贈り、保科氏に附いて歸つた侍女菊を熊本まで附けて遣つた。
翌慶長五年關ヶ原の功に依つて筑前國を貰つた長政は、年の暮に始て粕屋郡《かすやごほり》名島の城に入つた。六年には一旦《いつたん》京都へ上つて歸つた如水と相談して、長政が當時|那珂《なか》郡警固村の内になつてゐた福崎に城を築いた。これが今の筑紫《ちくし》郡福岡である。此時一しよに築かれた端城《はじろ》六箇所の内で、上座郡|左右良《まてら》の城は利安、鞍手《くらて》郡高取の城は友信、遠賀《をんが》郡黒崎の城は之房が預つた。七年十一月に福岡城の東の丸で、長政の嫡男忠之が生れた。小字萬徳である。本丸は警固大明神の社のあつた跡なので、血の汚《けがれ》を避けて、これも利安に預けてある東の丸に産所をしつらはせたのである。九年には城の三の丸で、如水が五十九歳で亡くなつた。十一年には長政の長女徳、十五年には二男犬萬、十七年には三男萬吉が生れた。犬萬は後の長興《ながおき》、萬吉は後の隆政である。
十九年から元和元年に掛けて、大阪に豐臣氏の亂があつた。十九年の冬の陣には、長政が江戸を守り、十三歳の忠之が傷寒のまだなほらぬのに、押して福岡から上つた。長政の下には利章がをり、福岡へは江戸から利安が下つて留守をした。元和元年の夏の陣には、長政は江戸から、忠之は福岡から大阪へ出向いた。利安は筑前に殘つて、利章は忠之の手に加はつた。保科氏が徳、犬萬、萬吉の三人を連れて江戸に往つたのは大阪落城の直後である。
駿府《すんぷ》で徳川家康の亡
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