カめ、将校の階級によって価《あたい》が違うのは不都合である。休暇を貰っても、こんな土地では日の暮らしようがない。町中《まちじゅう》に見る物はない。温泉場に行くにしても、二日市《ふつかいち》のような近い処はつまらず、遠い処は不便で困る。先ずこんな事である。石田は只はあ、はあと返事をしている。
 中には少し風流がって見る人もある。庭の方を見て、海が見えないのが遺憾だと云ったり、掛物を見て書画の話をしたりする。石田は床の間に、軍人に賜わった勅語を細字に書かせたのを懸けている。これを将校行李に入れてどこへでも持って行くばかりで、外に掛物というものは持っていないのである。書画の話なんぞが出ると、自分には分らないと云って相手にならない。
 翌日あたりから、石田も役所へ出掛に、師団長、旅団長、師団の参謀長、歩兵の聯隊《れんたい》長、それから都督と都督部参謀長との宅位に名刺を出して、それで暑中見舞を済ませた。
 時候は段々暑くなって来る。蝉の声が、向いの家の糸車の音と同じように、絶間なく聞える。夕凪《ゆうなぎ》の日には、日が暮れてから暑くて内にいにくい。さすがの石田も湯帷子《ゆかた》に着更《きか》えてぶらぶらと出掛ける。初のうちは小倉《こくら》の町を知ろうと思って、ぐるぐる廻った。南の方は馬借から北方《きたかた》の果まで、北方には特科隊が置いてあるので、好く知っている。そこで東の方へ、舟を砂の上に引き上げてある長浜の漁師村のはずれまで歩く。西の方へ、道普請に使う石炭屑が段々少くなって、天然の砂の現れて来る町を、西|鍛冶屋《かじや》町のはずれまで歩く。しまいには紫川の東の川口で、旭町《あさひまち》という遊廓《ゆうかく》の裏手になっている、お台場の址《あと》が涼むには一番好いと極めて、材木の積んであるのに腰を掛けて、夕凪の蒸暑い盛を過すことにした。そんな時には、今度東京に行ったら、三本足の床几《しょうぎ》を買って来て、ここへ持って来ようなんぞと思っている。
 孵《か》えた雛《ひよこ》は雌であった。至極丈夫で、見る見る大きくなる。大きくなるに連れて、羽の色が黒くなる。十日ばかりで全身真黒になってしまった。まるで鴉《からす》の子のようである。石田が掴《つか》まえようとすると、親鳥が鳴くので、石田は止《や》めてしまう。
 十一日は陰暦の七夕《たなばた》の前日である。「笹《ささ》は好しか」と云
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