チていることになった。
 三四日立った。七月三十一日になった。朝起きて顔を洗いに出ると、春が雛《ひよこ》の孵《か》えたのを知らせた。石田は急いで顔を洗って台所へ出て見た。白い牝鶏の羽の間から、黄いろい雛の頭が覘《のぞ》いているのである。
 商人が勘定を取りに来る日なので、旦那が帰ってから払うと云えと、言い置いて役所へ出た。午《ひる》になって帰ってみると、待っているものもある。石田はノオトブックにペンで書き留めて、片端から払った。
 晩になってから、石田は勘定を当ってみた。小倉に来てから、始て纏《まと》まった一月間の費用を調べることが出来るのである。春を呼んで、米はどうなっているかと問うてみると、丁度|米櫃《こめびつ》が虚《から》になって、跡は明日《あした》持って来るのだと云う。そこで石田は春を勝手へ下らせて、跡で米の量を割ってみた。陸軍で極《き》めている一人一日精米六合というのを迥《はるか》に超過している。石田は考えた。自分はどうしても兵卒の食う半分も食わない。お時婆あさんも春も兵卒ほど飯を食いそうにはない。石田は直《すぐ》にお時婆あさんの風炉敷包の事を思い出した。そして徐《しずか》にノオトブックを将校行李の中《うち》へしまった。
 八月になって、司令部のものもてんでに休暇を取る。師団長は家族を連れて、船小屋の温泉へ立たれた。石田は纏まった休暇を貰わずに、隔日に休むことにしている。
 表庭の百日紅に、ぽつぽつ花が咲き始める。おりおり蝉《せみ》の声が向いの家の糸車の音にまじる。六日は日曜日で、石田の処《ところ》へも暑中見舞の客が沢山来た。初め世帯を持つときに、渋紙《しぶがみ》のようなもので拵《こしら》えた座布団を三枚買った。まだ余り使わないのに中に入れた綿が方々に寄って塊《かたまり》になっている。客が三人までは座布団を敷かせることが出来るが、四人落ち合うと、畳んだ毛布の上に据《す》わらせられる。今日なぞはとうとう毛布に乗ったお客があった。
 客は大抵|帷子《かたびら》に袴《はかま》を穿《は》いて、薄羽織を被《き》て来る。薄羽織は勿論《もちろん》、袴というものも石田なぞは持っていないのである。石田はこんな日には、朝から夏衣袴《なついこ》を着て応対する。
 客は大抵同じような事を言って帰る。今年は暑が去年より軽いようだ。小倉は人気が悪くて、物価が高い。殊《こと》に屋賃をは
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