んはこの話の裏面に、別に何物かがあるのを、石田に発見して貰いたいのである。ところが石田にはどうしてもそれが分らないらしい。どうも馬鹿なのだから、分らないでも為《し》ようがない。そこでじれったがりながら、反復して同じ事を言う。しかし自分の言うことが別当に聞えるのは強《こわ》いので、次第に声は小さくなるのである。とうとうしまいには石田の耳の根に摩《す》り寄って、こう云った。
「こねえな事を言うては悪うござりまするが、玉子は旦那様の鳥も生まんことはござりません。どれが生んでも、別当さんが自分の鳥が生んだというのでござりますがな。」
婆あさんはおそるおそるこう云って、石田が怒って大声を出さねば好いがと思っていた。ところが石田は少しも感動しない。平気な顔をしている。婆あさんはじれったくてたまらない。今度は別当に知れても好いから怒って貰いたいような気がする。そしてとうとう馬鹿に附ける薬はないとあきらめた。
石田は暫《しばら》く黙っていて、極めて冷然としてこう云った。
「己は玉子が食いたいときには買うて食う。」
婆あさんは歯痒《はがゆ》いのを我慢するという風で、何か口の内でぶつぶつ云いながら、勝手へ下った。
七月十日は石田が小倉へ来てからの三度目の日曜日であった。石田は早く起きて、例の狭い間で手水《ちょうず》を使った。これまでは日曜日にも用事があったが、今日は始て日曜日らしく感じた。寝巻の浴帷子《ゆかた》を着たままで、兵児帯《へこおび》をぐるぐると巻いて、南側の裏縁に出た。南国《なんこく》の空は紺青《こんじょう》いろに晴れていて、蜜柑の茂みを洩《も》れる日が、きらきらした斑紋《はんもん》を、花壇の周囲《まわり》の砂の上に印している。厩には馬の手入をする金櫛《かなぐし》の音がしている。折々馬が足を踏み更えるので、蹄鉄《ていてつ》が厩の敷板に触れてことことという。そうすると別当が「こら」と云って馬を叱っている。石田は気がのんびりするような心持で、朝の空気を深く呼吸した。
石田は、縁の隅に新聞|反古《ほご》の上に、裏と裏とを合せて上げてあった麻裏を取って、庭に卸して、縁から降り立った。
花壇のまわりをぶらぶら歩く。庭の井戸の石畳にいつもの赤い蟹のいるのを見て、井戸を上から覗《のぞ》くと、蟹は皆隠れてしまう。苔《こけ》の附いた弔瓶《つるべ》に短い竿《さお》を附けたのが抛《ほう
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