もある。都の手振《てぶり》だとか北里十二時《ほくりじゅうにとき》だとかいうものは、読む人が文と事との間に調和をかいでいるのを感ぜずにはいない。
 この調和は読む人の受用を傷つける。それは時と所との色を帯びている古言が濫用せられたからである。
 しかしここにいう所は文と事との不調和である。文自体においてはなお調和を保つことが努められている。これに反して仮りに古言を引き離して今体文に用いたらどうであろう。極端な例をいえば、これを口語体の文に用いたらどうであろう。
 文章を愛好する人はこれを見て、必ずや憤慨するであろう。口語体の文は文にあらずという人はしばらくおく。これを文として視《み》ることをゆるす人でも、古言をその中に用いたのを見たら、希世《きせい》の宝が粗暴な手によって毀《こぼ》たれたのを惜しんで、作者を陋《ろう》とせずにはいぬであろう。
 以上は保守の見解である。わたくしはこれを首肯する。そして不用意に古言を用いることを嫌う。
 しかしわたくしは保守の見解にのみ安住している窮屈に堪えない。そこで今体文を作っているうちに、ふと古言を用いる。口語体の文においてもまた恬《てん》としてこれを
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