突然少年が頭を挙げて云つた。「僕と一しよに逃げて下さい。」
娘は涙の一ぱい溜まつてゐる、美しい目で、無理に笑はうとした。そして頭を振つたが、その様子が奈何《いか》にも心細げに見えた。
少年は又前のやうに、悪い手袋を嵌めた、小さい手を取つた。そして竪《たて》に長い中堂を見込んだ。日はもう入つてしまつて、色硝子の窓が鈍い、厭な色の染みになつて見えて、あたりはしんとしてゐる。
その内天井の高い所で、ぴいぴい云ふ声のするのに気が付いて、二人共仰向いて見た。一羽の燕が迷ひ込んでゐて、疲れた翼を振《ふる》つて、出口を捜してゐるのであつた。
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少年は帰途《かへりみち》になると、まだせずに置いたラテンの宿題の事を思ひ出した。そして随分疲れてもゐるし、厭でもあるが、それを片付けてしまはうと決心した。その癖わざとしたと云つても好いやうな不注意から、余計な迂路《まはりみち》をしたり、好く知つてゐる町で、ちよいと道に迷つたりして、自分の小部屋に帰つた時は、もう夜《よ》に入つてゐた。
机の上のラテンの筆記帳の上には、小さい手紙が一本ある。それを取り上げて、覚束ない、ち
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