。意地ですから。」
 「あなた本当にわたくしを愛して入らつしやつて。」かう云つて娘は返事を待つてゐる。
 「なんともかとも言ひやうのない程愛してゐます。」かう云つて少年は、何か言ひさうにしてゐる娘の唇にキスをした。
 「そのあなたがわたくしを連れて逃げて下さると仰《おつし》やるのは、いつ頃でせうか」と、娘はたゆたひながら尋ねた。
 少年は黙つてゐる。そして無意識に仰向いて太い石の柱の角を辿つて、その上の方に掛つてゐる古い受難図を見た。その図には「父よ、彼等に免し給へ」云々と書いてある。
 それから少年は心配気に娘に尋ねた。「あなたのお内ではもう何か気取《けど》つてゐるのですか。」
 娘が黙つてゐるので、少年は「どうです」と重ねて尋ねた。
 娘は黙つて徐《しづ》かに頷《うなづ》いた。
 「さうですか。大方そんな事だらうと思つた。お饒舌《しやべ》り共奴が。僕はどうにかして。」かう憤然として言ひ掛けて、少年は両手で頭を押へた。
 娘は少年の肩に身を寄せ掛けて、あつさりとした調子で云つた。「あなたそんなに心配なさらなくても好くつてよ。」
 こんな風にもたれ合つて、二人は暫くぢつとしてゐた。
 
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