は厭な、黒い石垣が見えてゐて、日の当る事がない。少年の思ひ出したのは自分の為事《しごと》をする机である。その上にはラテン文の筆記帖が一ぱい載せてある。丁度広げてある一冊の中にはPLATON,SYMPOSION《プラトオン、ジンポジオン》と書いてある。二人の目は意味もなく前の方を見てゐる。その視線は丁度ベンチの木理《もくめ》の上を這つてゐる一疋の蠅の跡を追つてゐるのである。
 二人は目を見合せた。
 アンナは溜息を衝いた。
 フリツツはそつと保護するやうに、臂を娘の背に廻して抱いて云つた。「逃げられると好いのだがね。」
 アンナは少年の顔を見た。そして少年の目の中に赫いてゐるあこがれに気が付いた。
 娘が伏目になつて顔を赤くしてゐると、少年が囁いた。
 「一体内の奴は皆気に食はないのですよ。どこまでも気に食はないのですよ。僕があなたの所から帰る度に、皆がどんな顔をして僕を見《みる》と思ひます。どいつもこいつも僕を疑つて、僕の困るのを嬉しがつてゐるのです。僕だつてもう子供ではありません。けふでもあしたでも、少し収入があるやうになりさへすれば、あなたと一しよにどこか遠い所へ逃げて行きませうね
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