向うは真の闇になつてゐる。
 そこに二人は坐つてゐる。その頭の上には古い受難図が掛けてある。色の青い娘は、着てゐる薄い茶色のジヤケツを、分厚に出来た、黒い※[#「※」は「木へんに解」、278−上−13]《かし》の木のベンチの、一番暗い隅に押し付けるやうにして坐つてゐる。娘の被つてゐる帽子の薔薇の花が、腰を掛けてゐるベンチの背中の木彫の天使の腮《あご》をくすぐると見えて、天使は微笑《ほゝゑ》んでゐる。
 フリツツといふ高等学校生徒は、地の悪くなつた手袋に嵌め込んである、ひどく小さい、娘の両手を、丁度小鳥をでも握つてゐるやうに、柔かに、しかもしつかり握つてゐる。
 フリツツは好い心持に、現《うつゝ》の夢を見てゐる。大方今に己達のゐるのを知らずに、寺院の戸を締めるだらう。さうしたら己達は二人切りになるだらう。夜になつたら化物が出て来さうだなどと思つてゐるのである。
 二人はぴつたり身を寄せ合つた。そして娘のアンナが、心細げに囁いた。「もう遅いでせうか。」
 かういふと同時に、二人はいづれも悲しい事を思ひ出した。娘の思ひ出したのは、自分が明けても暮れても縫物をしてゐる窓の下の座である。そこから
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