突然少年が頭を挙げて云つた。「僕と一しよに逃げて下さい。」
 娘は涙の一ぱい溜まつてゐる、美しい目で、無理に笑はうとした。そして頭を振つたが、その様子が奈何《いか》にも心細げに見えた。
 少年は又前のやうに、悪い手袋を嵌めた、小さい手を取つた。そして竪《たて》に長い中堂を見込んだ。日はもう入つてしまつて、色硝子の窓が鈍い、厭な色の染みになつて見えて、あたりはしんとしてゐる。
 その内天井の高い所で、ぴいぴい云ふ声のするのに気が付いて、二人共仰向いて見た。一羽の燕が迷ひ込んでゐて、疲れた翼を振《ふる》つて、出口を捜してゐるのであつた。
     ――――――――――――
 少年は帰途《かへりみち》になると、まだせずに置いたラテンの宿題の事を思ひ出した。そして随分疲れてもゐるし、厭でもあるが、それを片付けてしまはうと決心した。その癖わざとしたと云つても好いやうな不注意から、余計な迂路《まはりみち》をしたり、好く知つてゐる町で、ちよいと道に迷つたりして、自分の小部屋に帰つた時は、もう夜《よ》に入つてゐた。
 机の上のラテンの筆記帳の上には、小さい手紙が一本ある。それを取り上げて、覚束ない、ちらつく蝋燭の火で読んで見ると、こんな事が書いてある。
 「何もかも知られてしまひましたの。だからこの手紙は、わたくし泣ながら書きます。お父う様はわたくしを打ちました。わたくしどうしようかと思ひますわ。もうとても外へ一人でなんか出しません。あなたの仰やつた通りだと思ひます。御一しよに逃げませうね。アメリカへでも好いし、その外どこでも、あなたのお好きな所へ参りますわ。わたくしあすの朝六時に停車場《ステエシヨン》に参つてゐます。六時に出る汽車がございます。いつもお父う様がそれに乗つて猟に行きますから知つてゐます。どこへ行くのが宜しいか、それはわたくしには分りません。誰か参るやうですから、もう書かれません。わたくしきつと待つてゐてよ。六時ですよ。どうしてもあなたとは死ぬまで別れません。アンナより。わたくし誰か参るかと思つたら、参りませんでしたの。あなたどこへ入らつしやるお積りなの。お金はあつて。わたくし貯金は八円しかなくつてよ。この手紙は、内の女中に持たせてあなたのお内の女中に渡させます。わたくしもうちつともこはくなんかなくつてよ。あなたのお内のマリイをばさんが饒舌つたらしいのよ。やつぱり日曜
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング