にあの人に見られたのね。」
少年は手紙を読んでしまつてから、大股に室内を歩き出した。なんだか今までの苦痛が無くなつたやうな心持がする。動悸が烈しい。兎に角一人前の男になつたといふ感じがある。アンナが己に保護を頼むのだ。己は女を保護する地位に立つのだ。保護して遣れば、あの女は己の物になるのだと思ふと、ひどく嬉しい。血が頭に昇つて来る。そこで椅子に腰を掛けた。その時、どこへ行つたら好からうと云ふ問題が始めて浮んだ。
この問題の解決は中々付かない。そこでそれをぼかす為めに、跳り上がつて支度をし始めた。
少しばかりのシヤツや衣類を纏めて、それから溜めて置いた紙幣を黒革の紙入れに捻ぢ込んだ。それから忙しげに、なんの必要もない抽斗《ひきだし》なぞを開け放して、品物を取り出しては、又元の位置に戻したり何かした。机の上にあつた筆記帳は部屋の隅へ投げた。「己はもう出て行くからこんな所に用は無い」と、壁に向つて息張《いば》つてゐると云ふ風である。
夜中過ぎに寝台《ねだい》の縁に腰を掛けた。眠らうとは思はない。余り屈んだり立つたりしたので、背中が痛いから、服を着た儘で、少し横になつてゐようと思つたのである。
横になつてから、又どこへ行かうかと考へた。そして声を出して云つた。「なに。真の恋愛をしてゐる以上はどうでもなる。」
時計がこち/\と鳴つてゐる。窓の下の往来を馬車が通つて、窓硝子に響く。時計は十二時まで打つて草臥《くたび》れてゐると見えて、不性らしく一時を打つた。それ以上は打つ事が出来ないのである。
少年はその音を遠くに聞くやうな心持で、又さつきの「真の恋愛をしてゐる以上は」と云ふ詞を口の内で繰り返した。
その内夜が明け掛つた。
フリツツは床の上で寒けがして、「己はもうアンナは厭になつた」と思つてゐる。なんだか頭がひどく重い。「兎に角アンナは厭だ。あれが真面目だらうか。二つ三つ背中を打《ぶ》たれたからと云つて、逃げ出すなんて。それにどこへ行くといふのだらう。」それからアンナが自分に行く先を話した事でもあるやうに、その土地を思ひ出さうとして見た。「どうも分からない。それに己はどうだ。何もかも棄てゝしまはなくてはならなくなる。両親も棄てる。何もかも棄てる。そして未来はどうなるのだ。馬鹿げ切つてゐる。アンナ奴。ひどい女だ。そんな事を言ふなら、打つて遣つても好い。本当にそん
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